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相模原支局 佐藤百合
刻む2015(9)相模補給廠爆発事故 米軍の壁なお高く

社会 神奈川新聞  2015年12月23日 10:03

現場に立ち入り、倉庫内の現状を確認する相模原市消防局職員(8月27日、在日米陸軍提供)
現場に立ち入り、倉庫内の現状を確認する相模原市消防局職員(8月27日、在日米陸軍提供)

 「日米地位協定の運用改善が今回されたとは、現時点では思っていない。相模原市消防局の現場確認は米側の手の中でやった」

 在日米陸軍相模総合補給廠(しょう)(同市中央区)の爆発事故から4カ月になろうとしている。騒然となった一夜からこれまでを振り返り、市幹部は、依然立ちはだかる“壁”を思う。

 8月24日午前0時45分。寝静まった住宅街に爆発音が響き、オレンジ色の炎が夜空を焦がした。補給廠内の倉庫1棟約900平方メートルが炎上。倉庫内の酸素ボンベや消火器が爆発して約200メートルにわたり飛び散ったが、けが人はいなかった。

 米軍基地内で事故が起きた際、必ず立ちはだかるのが日米地位協定だ。基地の管理権は米国にあると定められている。

 以前から、市は地位協定の見直しを念頭に置きつつ、「市と現地米軍の間で現実的な運用の改善を図り、積み重ねることも必要」と現行体制の改善を訴えてきた。

 その改善の「一例」として挙げたのが、市消防局による消火活動と、今回新たに実現した現場への立ち入り調査だったが、ともに心もとない結果となった。

鎮火まで6時間半



 事故発生時、米軍からの要請を受け、市消防局の13隊約50人が現場に駆けつけた。出動は、1964年に市と在日米陸軍基地管理本部が結んだ「消防相互援助協約」に基づく。火災や災害時の対応で地位協定を補完するものだ。71年以降、補給廠へは2回、市内のその他の米軍施設へは14回の実績がある。

 しかし、今回の爆発事故で実際に放水活動が行われたのは鎮火間際。倉庫内の保管物に水をかけると危険な物質がある可能性もあり、米側が「待った」をかけたためだ。市はもちろん、現場レベルでは米側も保管物を把握していないというお粗末ぶりだった。結局、鎮火まで約6時間半を要した。

 市によると、全焼した倉庫は1998年に「可燃物倉庫」として日本政府が整備。その後、米軍の管理下にあり、保管物の情報は寄せられていなかった。

 市民団体「相模補給廠監視団」の沢田政司代表は、「住民は、背中合わせの危険性を突きつけられた。普段からの保守点検はどうなっていたのか。相模原市が定期点検ができる仕組みを作るべき」と強調する。

共同調査1回のみ



 事故直後に行われた日米共同調査は、日米地位協定の運用改善へ「一歩前進」と市や市民団体に好意的に受け止められたが、1回のみに終わった。

 事故当日、市は米軍に原因究明のための調査に加わることを要請、米軍も「透明性を持ちたい」と応じた。米側から正式な依頼を受け8月27日、市消防職員5人が現場に入った。

 倉庫内外に散乱するボンベや屋根が抜けた状況を確認したが、市消防局は「全てをどかして確認したわけではないので、原因は特定できない」とした。

 その後、米軍からの要請はなし。調査状況に関する市の問い合わせに対しても米軍は「無用な臆測を招かないためにも、断片的な情報は出さない」「結果が出たら、日本政府を通して報告する」とだけ答えてきた。現地調査の進展などは分からないまま、季節がすぎていった。

原因はいまだ不明



 12月4日、防衛省と外務省は米軍の調査状況をまとめた報告書を市に提出。「確実な火災原因を特定するまでには至っていない」としつつ、倉庫内の酸素ボンベのバルブ部分の不具合などを指摘。小さな穴から気体が漏れ、周辺の金属と摩擦が生じたことによる発火を「最も可能性が高い」とした。

 事故発生から3カ月以上経過してから提出された報告書。市幹部は「時間をかけた割には、踏み込んだ部分が出ていない」と不満を口にする。そもそも酸素自体は燃えず、それが原因で発火するとは一般的には考えられない。市消防局の立ち入り調査内容も反映されておらず、「あくまで米軍からの見解」(市消防局)と受け止めるしかなかった。

 報告書は「今後、原因を特定する情報があれば、日本側に速やかに情報を提供する」としており、「中間報告」としての位置づけ。市は、原因究明活動の継続とその結果報告や、再発防止のために市消防局が消火設備を確認できるよう求めた。

 今回は幸いにも負傷者は出なかったが、今後同じような事故が起きれば、どうなるか分からない。市は「再発防止策を進めることが、市街地にある基地を管理する責任」と言い切る。だがその権限は市にはない。「それが実現するように米軍に求めていく」という言葉を重ねるしかないのが現状だ。

【記者の視点】「無関心」超えるには



 事故発生直後、相模総合補給廠(しょう)のメーンゲート前は、深夜にもかかわらず人であふれていた。

 米軍基地が身近にあることの不安や恐怖を口にする住民は多かった。ただ、取材を進める中で気になったのが、単に「非日常」を楽しんでいるようにも見える雰囲気だった。

 「すごい写真が撮れた」

 「興奮した」

 幸いけが人はいなかったが、一歩間違えば人命に関わる事故だった。「基地の街」に住みながら、どこか他人ごとの様子に違和感を覚えながらも、共感してしまう気持ちもあった。

 私は、相模原市緑区(旧城山町)で生まれ育った。入社3年目。恥ずかしながら、相模原が「基地の街」と呼ばれるのを知ったのは、記者として再び故郷に戻ってからだ。

 それまで、米海軍厚木基地周辺のように耳をつんざくような爆音に悩まされたことはない。横須賀のどぶ板通りのように街を歩く米兵の姿を目にしたこともない。

 JR横浜線に乗ると、相模原駅から矢部駅にかけて車窓からひたすらフェンスが見え、広大な土地には倉庫と青空が広がる。住宅街のど真ん中にある“異様”な光景を疑問に感じたことも、実はなかった。

 「基地があることに慣らされているからだ」

 事故後の取材で、日米地位協定に詳しい沖縄国際大学の前泊博盛教授の言葉が胸につき刺さった。

 爆発事故からもうすぐ4か月になる。大規模なデモや抗議運動は起きず、日々の取材活動の中でも事故が話題に上ることも少なくなった。

 「時が過ぎれば忘れると米軍は分かっている。被害を受けている人が無関心ならば、行政は対応できない」。前泊教授は続ける。「何のために基地があるのか、どんな危険性があるのか、メディアも伝えないと」

 初めての米軍取材で痛感したのは、その壁の厚さだ。米側による記者会見はなく、質問は電子メールで送るように言われた。明確な回答がないことも多く、怒りも覚えた。

 「宿題を与えられてしまいましたね」

 前泊教授への取材の最後、そう言われた。「基地の街」に生まれた身として、記者として、これからも宿題に向き合っていかなければいけない。


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