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戦争のある人生(13)遮蔽幕の中で泣いた

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

東部64部隊の営庭で撮影された面会日の家族写真。中央が高津一郎さん=1943年12月(高津さん提供)
東部64部隊の営庭で撮影された面会日の家族写真。中央が高津一郎さん=1943年12月(高津さん提供)

 何もしないでいいのか、こんなことをしていていいのか-。日米開戦から2年近くが経過し戦況の悪化がささやかれる中で、20歳前後だった高津一郎さん=横浜市西区=の頭にそんな問いが幾度となく去来していた。県立商工実習学校(現県立商工高校)で応用化学を学び化学メーカーに就職したものの、ほどなく体調を崩し退社、静養。その後は大学の高等師範部で教員養成の課程を受けながら、臨時教員として横浜の三ツ沢国民学校の教壇に立っていた。

 ある夜、中学時代の友人と語り合った。「高津、おまえ、覚悟しろ。ガタガタしても結局入るよりしょうがないだろう」。そんな言葉に押され、高津さんは1943年12月、川崎・溝口の陸軍東部64部隊に現役入隊した。そこで1カ月ほどを過ごした。

 ほどなく、兵舎の窓際に束ねてあった灯火管制の遮蔽(しゃへい)幕の中に、同じ班の何人かが代わる代わる入るのに気付いた。「幕は分厚いでしょう。中で泣いているんですよ、お母さん、と」。兵営は家族の暮らす横浜から遠くはなかったが、塀の内と外とでは、とてつもない隔たりがあった。自身も何度か幕にくるまった。

 翌44年1月、高津さんは中国派遣軍の一員として南京に送られた。川崎駅を軍用列車でたち、福岡・博多港から朝鮮へ。「朝鮮、満州を列車で通った時はショックでした。あまりに貧しいものだから」。行けども行けども窓外に途絶えることのない陋屋(ろうおく)、はげ山。日本軍が「解放」したはずの地域の、それが現実だった。

 かの地での任務は重要都市南京の警護。高津さんは周辺数カ所を転々としながら初年兵教育、幹部候補生教育、予備士官学校を経て45年6月、見習士官に昇進した。実戦はなく教育ばかりの日々だった。「中国でも治安のいい場所でした。ただ、たまに行う国民党軍の討伐では、見習士官が先兵として100メートルぐらい先を駆けていくんです。向こうから弾がピューンと飛んでくる。ただの脅しなんですが、非常に怖かったです」

 大戦末期の当時、米軍が南京の300キロ東、上海に上陸すると想定され、中国派遣軍の焦点は対ソ戦から対米戦へと移っていた。その戦術は、戦術ともいわれないほど酷薄だった。急降下する航空機と戦う対空射撃、黄色薬(爆薬)を抱えて戦車の下に飛び込む対戦車攻撃、そして何キロもほふく前進して敵陣に接近し、相手を刺し殺す対陣地攻撃。

 勝てるとは誰も思わなかった、と高津さんは振り返る。「でも俺たちがしっかりやらなきゃいけないんだ、という思いはありました」

傀儡政府の「首都」


 南京は蒋介石が率いた中国国民党政府の首都だった。1937年7月に日中戦争が始まり、日本軍は同年12月に南京を占領。このとき「南京大虐殺」が起きたとされる。被害者数には諸説あるが、日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との見解を公表している。

 藤原彰著「南京の日本軍」によると、上海派遣軍が作戦行動の範囲を超えて南京を目指したと指摘。補給は不十分で「徴発という名目」の略奪につながったとした。翌38年、日本軍が傀儡(かいらい)の政府を南京に樹立。大戦を通じて重要都市だった。


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