1. ホーム
  2. 戦争のある人生
  3. 戦争のある人生(12)生還のための幕開け

軍隊の演劇
戦争のある人生(12)生還のための幕開け

フォロー・シェアボタン

神奈川新聞  2005年11月27日公開  

日中戦争で南京に入城する日本兵 =1937年12月
日中戦争で南京に入城する日本兵 =1937年12月

 中国南京から長江を挟んで50キロほど離れたじょ県(現じょ州)の畑地に、突如として千人規模の野外劇場が立ち現れた。1945年初冬。敗戦で武装解除され、中国国民党軍の捕虜となっていた陸軍の3大隊、数千人の集中営で、捕虜たちが芝居を打ったのだ。

 「故郷の春」と題した劇は、軍服姿の夫が復員する場面から始まった。夫を待ち続けた妻も、もちろん男が演じた。かつら、くし、着物、げたといった衣装や小道具は召集前に職人だった兵が作り、それを大隊きっての美男子に着せて女装させたのだった。

 「復員兵が荷物一つ抱えて家に帰り、奥から姉さんかぶりをした妻が出てくる。2人ともびっくりして、しばらく見合っているんだけれど…やがてバッと抱き合うんです」

 陸軍少尉で、劇の演出助手、舞台監督を務めた高津一郎さん(92)=横浜市西区=は舞台袖から客席を見て驚嘆した。千人の観客が見る間に総立ちになっていた。「兵隊たちは動揺したり喜んだり悲しんだり叫んだり。芝居ってこんなにすごいのか、と」。描かれたことは、皆がこれから経験するはずの物語だった。

 企画したのは、高津さんの所属した大隊の上官、第1中隊長。捕虜といいながら鉄条網や銃を持った監視兵はなく、日本兵に自主管理が任されていた。国共内戦が激しく、捕虜の管理どころではなくなっていたからだ。武装解除の後、国民党軍は大隊ごとに数十丁の小銃と実弾を日本側に返却し、自衛を命じて去った。食料は、米が1年分ほど備蓄されていて心配なかった。

 「自由でした。訓練も討伐もない。だから文化活動が始まったんです」。流行歌、手踊り、俳句や短歌の会、雑誌や新聞の発行。その中にあって第1中隊長は、高津さんが今思うには、芝居を単なる娯楽でなく「復員準備」と位置付けていたようだった。

 命じられて高津さんが書いた台本は、主人公が遠い故郷に思い巡らす、という感傷的な内容だった。けれども中隊長は一蹴した。「帰るのは分かっているんだから、その後のことを書け」と。中隊長が書き直した台本は冷静だった。老親は出征中に亡くなり、兄も南方で戦死、憲兵だった友人は戦犯として逮捕…。

 高津さんは言う。「彼は状況を正確に把握していたんですね」。公演は進駐軍が日本から撤退した場面で大歓声のうちに幕となった。必然の死に直面していた兵士たちは、既に生還への途上にいた。

 復員後、高津さんは横浜で今も続く劇団「麦の会」の創立メンバーとなった。だが、じょ県の経験が直結したのではない。戦後の価値観を見いだすのに相当の思索を要した。

 

南の島に雪が降る
 戦地での演劇といえば、俳優加東大介著「南の島に雪が降る」が知られる。陸軍衛生兵として応召し西ニューギニアのマノクワリに赴いた加東は戦中、将兵の士気を鼓舞する名目で劇団づくりを命ぜられた。用途のなかった落下傘の生地などを使って作った「雪」は、北国出身の兵に望郷の念を喚起した。

 戦後シベリアに抑留された歌手三波春夫も、捕虜収容所で仲間と芝居を上演、浪曲や歌謡曲も創作した。評論家平岡正明の論考「敗戦の演劇3」(雑誌「公評」1998年11月号)によると、48年に三波が手がけた劇が「ソ連を軍国的に表現した」と政治指導部員(民主化委員)から批判されたこともある。民主化委員とは、ソ連側に「転向」した日本人捕虜だった。



シェアする

編集部のおすすめ

アクセスランキング

  1. 【台風19号】河川水位が各地で上昇 中小河川も危険

  2. 【写真特集】台風19号 神奈川各地の状況

  3. 【台風19号】「城山ダム放流へ」流域住民、避難所に殺到

  4. 【台風19号】多摩川氾濫の恐れ、川崎市が避難指示

  5. 多摩川・鶴見川、氾濫の恐れ 台風で川崎市が避難勧告

  6. 【台風19号】城山ダム、緊急放流へ 相模川流域で浸水も

  7. 高潮の恐れ、川崎・川崎区の一部に避難勧告

  8. 横浜・瀬谷区の一部に避難勧告

  9. 【台風19号】各地に避難所開設、住民避難が急増

  10. 【台風19号】城山ダム緊急放流、午後5時は見送り