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満鉄の子ども
戦争のある人生(8)遺骨は機関区で眠る

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

チチハル機関区庶務主任時代の父井上久雄さん(井上城司さん提供)
チチハル機関区庶務主任時代の父井上久雄さん(井上城司さん提供)

 旧満州(中国東北部)のチチハルで終戦を迎えた井上城司さん=開成町=に、引き揚げの機会はなかなかやってこなかった。やがて零下20度、30度になる冬になった。薪はニレの木の枝を乾燥させればよかったが、夜間の暖を取るためには石炭が要る。社宅近くの軍倉庫にごっそりあったが、そのころは中国共産党軍が街を制圧していた。

 「朝早く、子どもがかっ払いに行くんです。リュックサックを背負って鉄条網を破って」。大人が行けば見張りの兵に撃たれるが、子どもは大目に見られていた。小学生だった井上さんは重要な「働き手」だった。兄と2人で行けば2、3日分にはなった。

 ある時、ズドンと銃声がした。石炭を盗んだのか、大人が撃たれた。後で見に行くと3、4人の兵士が穴を掘って遺体をごろりと転がしているところだった。そのころの井上さんにとって、死は既に身近だった。はしかが大流行し、社宅の同じ棟に40人はいた子どもが十数人に減った。「かわいそうだけれども、広い野っぱらに埋めたんだね。後に火葬を命じられ、枕木を組んだやぐらで遺体を燃やしていました。強烈なにおいで…」

 井上さんが一家6人でチチハルを後にしたのは1946年9月13日。最後の引き揚げ列車という話だった。

 途中、ハルビンと長春の間を流れる松花江の手前で列車を降ろされた。内戦のさなかにあった共産党、国民党両軍の勢力圏の境界がここにあった。船で川を渡る、という時に弟が高熱を出した。みるみる衰弱する幼児の姿を、引き揚げ者は誰一人気にとめず、待ってもくれなかった。「父は置いていこうとしましたが、母はそれなら私も残ると言い張りました」。父は荷物を捨てて弟を背負った。

 やがて意識を取り戻した弟とともに、屋根のない石炭貨車などで幾夜も過ごし、遼東湾の葫蘆島(ころとう)から米艦に乗り込んだのは10月20日。3日後に長崎の佐世保に着いた。



 井上さん自身、途中駅で用を足している間に列車が動き始め、危うく取り残されかけた。「でも“誇り高き満鉄社員の子”として『本籍地は神奈川県足柄上郡吉田島村何々番地』とたたき込まれていましたから。はぐれたらそう言えと」。初めてたどり着いた「故郷」の酒匂川は、悠々と流れる大陸の川とは違い、早瀬が音を立てていた。

 81年6月、井上さんは満鉄関係者の訪中団の一員として35年ぶりにチチハルの土を踏んだ。わずか3カ月前に他界した父の遺骨の一部を、頼んで機関区の一隅に埋めてもらった。満鉄時代、父の下で働いたという中国人の鉄道マンから後に届いた手紙には「深厚的友情」とあった。


留まった鉄道マン

 日本の敗戦とともに「満州国」は崩壊したが、満鉄の列車は止まらなかった。加藤聖文著「満鉄全史」によると、関東軍とソ連軍の会談後に「満鉄従業員ハ皆現職ニ留マレ」との指示が出され、1945年9月30日に満鉄が法的に解散した後も社員は引き揚げ輸送に従事。46年7月からは国民党による「留用」も行われた。

 「満州国」の東端、ソ満国境に近い東寧駅の電話交換手だった小原定子の手記「戦火の最終列車」は、ソ連侵攻直後に住民らを乗せ列車を走らせた社員の姿を描いた。「避難列車を安全地帯まで運行せねばならぬと、鉄道人の血が躍る」。ソ連軍の爆撃で、命を落とした鉄道員も多い。元満鉄職員の荒巻繁之丞著「鉄路のさけび」にも「われわれ鉄道員は、現在位置に留(とど)まり(略)運輸の確保に懸命の努力」をしたとある。


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