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4年半ぶり帰郷、再出発 津波で被災、岩手から横浜へ

話題 神奈川新聞  2015年11月01日 11:41

妻や長女とともに、古里の山田町へ出発する浦辺さん=31日午前11時50分ごろ、横浜市西区
妻や長女とともに、古里の山田町へ出発する浦辺さん=31日午前11時50分ごろ、横浜市西区

 東日本大震災の津波で自宅兼店舗を流され、横浜で避難生活を続けていた岩手県山田町の浦辺利広さん(59)夫妻が4年半ぶりに帰郷を果たす。災害危険区域に指定されたわが家の再建は諦め、新たに手に入れた高台の土地で再出発する。遅々として進まぬ復興の現実に不満を募らせながら、進むべき道を自ら切り開く決意を固めた浦辺さんは31日、荷物を積み込んだ2トントラックのハンドルを握り、人懐っこい笑顔で横浜を後にした。

 平屋の新居を構える土地を国道45号沿いに見つけたのは、1年半ほど前のことだった。不動産業者に勧められて現地に足を運び、「ここしかない」と即決した。

 更地となったわが家からは「車で7~8分」。豊かな三陸の海を見下ろす高台にあり、再び津波に襲われる心配はない。被災前の収入の柱だった遊漁船業をすぐに再開し、いずれは敷地の一角にバンガローを建てて宿泊客も受け入れようと青写真を描いている。

 横浜で1人暮らしをする長女を頼って避難所を後にしたのは、震災1カ月後の2011年4月。「石の上にも三年」と思って始めた避難生活が4年半にも及んだのは、町の復興が思うに任せなかったからだ。

 わが家の敷地はかさ上げ事業の対象地域に入らず、防潮堤の再整備も終わっていない。当初は移転せずに再建する道を探ったが、かつてのように安心して住める場所ではもはやなくなっていた。一時帰省するたびにため息をつき、再会した旧知に「いつ戻ってくるんだ」と尋ねられても、返答に窮した。

進まぬ復興 不安も決意

 ただ一方で、住み込みのビル管理の仕事を続けた横浜で、ふさぎ込んではいなかった。

 地域防災を考える市民グループに加わって自助の大切さを説き、横浜市西消防団の一員にもなった。「被災するまでは、防災や地域のことなんて考えていなかった。自分にとっての罪滅ぼし」。そんな思いで震災以降の苦難や反省を率直に伝え続けた。マニュアルや机上の論理はいざというときには役に立たないと繰り返し訴え、意見が異なる相手とは時に口論にもなった。

 それでも請われれば各地へ講演に出向き、生き抜くことの大切さを語った。津波なんて押し寄せてこないと高をくくり、すぐに避難しなかったあの日のこと。引き波で沖へと流されていく屋根の上で「助けてください」と懇願していた青年を助けられなかった自分。「生き恥をさらして」自らの体験を明かしたのは「いずれ起きる大地震であなたたちも被災者になる」と気付いてほしかったからだ。

 講演回数は110回を超え、最後となった9月7日の横浜市立岡野中学校(同市西区)では生徒たちにこう呼び掛けた。「被災すると、この中の誰かが死ぬんですよ」

 あらゆるものを奪った津波だが、浦辺さんが所有していた船3隻のうち、1隻は奇跡的に残った。その修理も済ませ、多額の借金を背負ったものの「10年で返したい」と自らの踏ん張りが古里の再生の一助になると願ってやまない。

 「人に恵まれ、便利すぎて楽園のようだった」が、古里がいつも気にかかり「ずっと住むつもりはない」とも思っていた横浜で最後の日、荷物の積み込みを手伝ってくれた消防団仲間と抱き合って別れを告げた浦辺さん。帰郷を心待ちにしていた妻明美さん(57)は「あちらは10度ぐらい気温が低い。もう暖房がいるかなあ」とほほえみ、助手席に乗り込んだ。


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