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写真家・江成常夫さん
時代の正体〈167〉自問重ね 忘却に抵抗

時代の正体 神奈川新聞  2015年08月16日 11:46


「インドネシアのビアク島にはまだ数千もの遺骨が残っている。それが戦後70年の現実です」と話す江成常夫さん。大病を患ったが、その後、日米が激戦を繰り広げた南洋の島々も巡った =相模原市中央区の自宅
「インドネシアのビアク島にはまだ数千もの遺骨が残っている。それが戦後70年の現実です」と話す江成常夫さん。大病を患ったが、その後、日米が激戦を繰り広げた南洋の島々も巡った =相模原市中央区の自宅

 半生を費やして「戦争の昭和」を撮り続けてきた写真家、江成常夫さん(相模原市中央区)は、戦後が負う「二つの罪」を思う。満州事変に始まる十五年戦争を引き起こし、アジア・太平洋地域で千万単位の人々を死なせたこと。そして、その歴史を忘れてきたことだ。戦後復興の一方、南海の小島にはいまだ故郷に帰れぬ遺骨が眠り、中国大陸には敗戦とともに置き去りにされた孤児たちがいる。写真家が見たこの70年とは-。

 「戦後日本の象徴のような風景でしょう」。4車線の国道に沿って巨大なショッピングモール、レストラン、コンビニが切れ目なく続く。江成さんが生まれ育った相模川沿いの農村は半世紀を経て、繁栄を体現する街になった。その風景は、中国東北部で見た「日本」の裏返しだった。

繁栄の陰に


 「経済大国なんていう言葉が吹聴されていたころです、戦争孤児の問題に取り組むようになったのは」。戦後、中国に取り残された孤児の肉親捜しを日本政府が本格的に始めたのは、終戦の36年後だった。

 彼らの多くは、日本軍の関東軍が1932年、中国東北部に傀儡(かいらい)国家「満州国」を打ち立てた後、国策で移住した農業移民「満蒙(まんもう)開拓団」だった。その数、32万。江成さんは「満州国」の跡を歩いた。そこでフィルムに刻んだのは、幾重もの格差、矛盾、虚構だった。

 壮大な都市計画が敷かれた長春(旧首都・新京)や瀋陽(旧奉天)には旧関東軍の司令部や贅(ぜい)を尽くした内装の旧ヤマトホテルが残っていた。一方、開拓団員が暮らした農家は、草ぶきの屋根、土壁、土間の粗末な造りだった。冬は氷点下40度になる酷寒の地に、当時は水道も電気もなかった。

 言葉を失った。「『満州国』が掲げた五族協和、王道楽土は真っ赤なうそでした。漢人や朝鮮人などと手を携えるはずが、現実には神社仏閣を建て、街の名前を日本風に変え、皇国化を進めた。それに開拓といっても、実際は現地民の農地を奪っただけなんです」

 戦況が悪化した45年、開拓団の男手の大半が召集された。同年8月9日、女性や子ども、高齢者ばかりの農村にソ連軍が侵攻した。開拓団の死者は8万に上るといわれる。「彼らを守るべき関東軍は真っ先に逃げました。しかも各所で橋を爆破して」。侵略の末の破滅。それを覆い隠すかのような戦後の経済至上主義。孤児に向けたレンズ越しに、江成さんは日本の「原罪」を読み取った。

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