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戦時忘れ夢中で担ぐ  1945年の浜降祭

社会 神奈川新聞  2015年08月01日 12:57

谷澤歳男さん
谷澤歳男さん

谷澤歳男さん(89)

 小さいころからみこしが好きでした。寒川神社の近くで育ち、未明に出発して茅ケ崎の海岸を目指す「浜降祭」には毎年参加していました。でも、この年ばかりは簡単には決められませんでした。
 
 1945年7月。当時19歳だった私は、寒川神社で若い担ぎ手たちと相談していました。戦争まっただ中の今、みこしを担げるのだろうか-。直面してきた数々の恐ろしい場面が、脳裏をよぎりました。

 農家の次男。相模鉄道に就職し、41年から相武台下駅(現JR相模線、相模原市)に配属されていました。近くには陸軍士官学校があり、米軍の攻撃の的になりました。弾が建物に当たる音で、駅も撃たれていることに気付いたのです。銃弾が飛び交う中、急いで貨車の下に潜り込み、身を隠しました。

 自宅から歩いて10分ほどの畑に、大きな爆弾が落ちたこともありました。夜中に「ズドン」という音と揺れで跳び起き、翌朝見に行くと、直径20~30メートル、深さ15メートル以上はある巨大な穴が出現していました。爆発の衝撃で、周囲には赤土の塊がごろごろと積もり、穴からは水が湧いていたのを覚えています。横浜大空襲でも、遠くの空が真っ赤に燃え上がる光景を見ました。

 浜降祭でもみこしを担いで本当に大丈夫だろうかと、不安でした。その相談をしていたころ、寒川神社には中隊本部が置かれていました。ふすまの向こうで話し合いを聞いていた中隊長が、申し出てくれたのです。「神様のことだから、やらないとだめだ。兵隊に担がせるから」-と。20人は必要だと話すと、40人以上の兵士が集まってくれました。

 7月15日。半袖の軍服に革靴を履いた兵士らが、未明から一緒に担いでくれました。祭りの間だけは攻撃の心配もせず、いつものように夢中で担ぎました。
 
 平塚が空襲に見舞われたのは、翌16、17日のことです。
 
 その後に入隊し、20日からは千葉県で通信兵として厳しい訓練を重ねました。約1カ月後に終戦を迎えました。負けた悔しさもありましたが、これからどうなるのだろうという心配も大きかったです。


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