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歌えじの曲
ひめゆり学徒の記憶(下) 平和と呼べぬ戦後

社会 神奈川新聞  2015年06月24日 11:32

ひめゆり平和祈念資料館の式典で「別れの曲」を歌う沖縄尚学高校合唱部の生徒たち=沖縄県糸満市(ひめゆり平和祈念資料館提供)
ひめゆり平和祈念資料館の式典で「別れの曲」を歌う沖縄尚学高校合唱部の生徒たち=沖縄県糸満市(ひめゆり平和祈念資料館提供)

 沖縄戦から70年、再びめぐってきた6月23日、「慰霊の日」。沖縄県南部の糸満市にあるひめゆり平和祈念資料館に横浜市出身のバリトン歌手、平林龍さん(37)の姿があった。

 元ひめゆり学徒として証言活動を続ける津波古(つはこ)ヒサさん(87)に「別れの曲(うた)」の存在を教わったのは2010年のことだった。砲弾が降り注ぐ最前線に動員され、希望に満ちた卒業歌を響かせることがかなわなかった少女たち。その無念を思い、以後、コンサートで歌い継ぐ。

 「沖縄戦の経験を背負い続ける証言員とは重さが違う。思いを完全に理解をすることも難しい。でも、せめて自分にできるのは歌い継ぐこと」

 この日、津波古さんと再会を果たした平林さんは「変わらぬ優しい笑顔」に触れ、思いを新たにした。

 「これからも歌っていきます。またお元気でお会いしましょう」

 そう約束を交わした。


 平林さんの姿に津波古さんは失われた美しい日々を重ね見る思いだった。「那覇であった平林さんのコンサートを学徒たちと聴きに行ったの。歌う姿が先生のようねと話したものです」

 その記憶は、のちに訪れる絶望のあまりの深さゆえ、まぶしい光として刻まれているのかもしれなかった。

 地上戦が近づきつつあるなかで「別れの曲」に音符を付けてくれた東風平(こちんだ)恵位(けいい)先生。東京にある上野音楽学校(現・東京芸術大学)を首席で卒業し、沖縄師範学校女子部に赴任していた。

 津波古さんが声を弾ませる。

 「独唱すれば素晴らしい音楽の才能の持ち主と圧巻でしたが、それ以外の時間は先生ぶったところがなく、何でもあけすけにお話しをなさってね。生徒と一緒になって笑ったり、遊んだりしていたからファンも多かった」

 津波古さんが在籍していた卓球部に顔を出しては生徒に「ラケットを貸して」とねだり、ピンポン球を追いかけた。統制を重んじ、国のことを第一に考えるよう繰り返すほかの教師とは違う空気をまとっていた。

 沖縄陸軍病院に配属されたのが1945年3月。その数カ月前、生徒が「先生、何か弾いていただけませんか」と頼むとベートーベンの「月光」を演奏した。その美しい調べを津波古さんは忘れない。

 陣地構築を指揮したのが縁で「別れの曲」の歌詞を書いた太田博少尉もそうだった。音楽の素晴らしさを伝える。それは生きている尊さを伝えることだった。

 「人が人でなくなるのが戦争。でも2人は人としての心を失わなかった」

 その声も戦火にいともたやすくかき消された。生徒たちに「死ぬんじゃないぞ」と言い続けた東風平先生は壕(ごう)の中で米軍のガス弾に倒れた。享年23歳。太田少尉は6月下旬に戦死したということが分かっているだけだ。

 津波古さんは今、胸騒ぎを抑えきれない。

 「戦争は失うことばかり。モノも、心も」

 打ち上げ花火は砲弾の爆発音を思わせ、美しいと感じられたことはない。米軍の捕虜になった後、先生を務めた孤児院で聞いた赤ん坊の泣き声が耳にこびりついて離れない。「母親を求めてワンワンと」。いまも子どもの泣き声を聞くと当時の記憶が舞い戻ってくる。

 そして安倍政権が進める新しい安全保障法制。

 「戦争準備ともとれる政府の動きにときどき『あれ?』と思うことがある。いや、あってはいけないこと、考えたくないと思うのだけれど、頭から離れず眠れなくなってしまうことがある。気付かないうちにとんでもないことが始まっていた70年前に、いまが似ている気がするの」

 祈るようにして両手を握りしめた。


平和への思いを語る沖縄尚学高校合唱部の(左から)松岡祐来さん、上地慶知さん、運天拡人さん、久手堅和憲さん
平和への思いを語る沖縄尚学高校合唱部の(左から)松岡祐来さん、上地慶知さん、運天拡人さん、久手堅和憲さん

 その津波古さんも見守った、ひめゆり平和祈念資料館で行われた式典。沖縄尚学高校合唱部の生徒たちが「別れの曲」や「ふるさと」「涙そうそう」を青空に響かせた。

 中学生のころに遠足で訪れた資料館で「別れの曲」を知ったという松岡祐来(ゆき)さん(16)は思いをはせる。

 「『これは卒業式のために書いた曲なのよ』と教わりました。希望を胸に卒業するのだと、学徒たちは自分の姿を歌詞に重ねていたのだろうなと思いました。でもその願いはかなわなかった」

 上地(うえち)慶知(よしとも)さん(16)にとっても、ひめゆり学徒の悲劇は人ごとではなかった。「亡くなった祖母が学徒として従軍する可能性があった。そうなっていたら僕は生まれていなかったかもしれない」

 軍人ではない、普通の学生が戦争に駆り出された現実が心に突き刺さる。「日本は平和と言うけれど、日米安保とか自衛隊という『裏側』があって成り立っている。明日、死ぬかもしれないと考えず生きることができる今は幸せなのかもしれないけれど、それがどのように保たれているのか目を背けてはいけない」

 沖縄を再び捨て石にさせないという強い意志が平和宣言の中ににじんでいた。この日、平和祈念公園で行われた沖縄戦全戦没者追悼式で翁長雄志沖縄県知事は過重な基地負担を指摘し、「国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできない」と訴えた。

 そうである以上、沖縄戦は終わったといえず、悲劇は繰り返されるのではないか、という問い掛け。

 やはり合唱部の運天(うんてん)拡人さん(16)は3年前、実家の畑で銃弾を見つけた。「『これは人を殺すために造られたのか』と思うとずしりと重く感じた」。70年前、地形も変わるほど砲弾を浴びた沖縄。学校がある那覇は今ではモノレールが走り、高層ホテル、ショッピングセンターが立ち並ぶ。「でも、ふとしたときに感じる。爪痕は残っている、と」

 部長の久手堅(くでけん)和憲さん(16)は「戦後70年」という言葉にある「戦後」は「沖縄には該当しない」と言う。「米軍基地があり、自衛隊がいて、日本はいつでも戦争を始めることができる状態にある。平和な状況であるとは考えることができない」

 賛美歌のような清らかな歌声に込められた、もはや祈りとは呼べぬ叫びが、どこまでも遠い空に響いた。


ひめゆり平和祈念資料館の式典で「別れの曲」を歌う沖縄尚学高校合唱部の生徒たち=沖縄県糸満市(ひめゆり平和祈念資料館提供)
ひめゆり平和祈念資料館の式典で「別れの曲」を歌う沖縄尚学高校合唱部の生徒たち=沖縄県糸満市(ひめゆり平和祈念資料館提供)

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