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旬漢〈6〉
秦基博「血にじむ言葉」

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神奈川新聞  2004年06月06日公開  

シンガー・ソングライターの秦基博。3日に18枚目のシングル「水彩の月」を発売した
シンガー・ソングライターの秦基博。3日に18枚目のシングル「水彩の月」を発売した

 「フィルムを切ったら、血が出るのではないか」。河瀬直美監督(46)はメガホンを取った最新映画「あん」(原作:ドリアン助川)を指し、言った。

 舞台はどら焼き屋。店主の千太郎に永瀬正敏、ハンセン病患者であることをふせ、店で働く老女・徳江に樹木希林。河瀬監督はカメラが回っていないところでも役になることを求めた。「スタート」の声はもちろん、終わりを示す「カット!」の声もかからない。いつ撮られているのか分からない永瀬らは、演じるのではなく、その人になりきった。

 坂のふもとにある小さな店。簡素な前掛けを腰に、頭に手ぬぐいを巻いて、千太郎は毎日焼き場に立つ。鉄板に落とした種を、鉄べらでひっくり返し、焼き仕上がった皮に用意しておいたあんをはさむ。その行程をひたすら繰り返していく。板に書いた「どら焼き 1個120円」の文字を見た地元民が、映画撮影とは知らずに「新しいどら焼き屋ができた」と列を作ったこともあった。

 差別に苦しみ生きたハンセン病患者の苦悩を描いた同作。主題歌は、河瀬監督が以前から親交があったシンガー・ソングライターの秦基博(34)に依頼した。仮編集段階の試写に出向いた秦は、「生きている意味について問いかけられているように感じた」と言い、生まれたのが発売中の新シングル「水彩の月」だ。


 陽が登る前に準備をし、コトコトと小豆を煮る。満開の桜の木、落ちた桃色の花びらをくるくると踊らす風、線路をキシキシと言わせながら走る電車の映像が、会話の間に挟み込まれる。徳江は語る。「この世にあるものは全て言葉を持っているのよ」と。木や花、風は言葉を持たない。けれど、その姿を見た観客が自分の経験を重ねることで、言葉は無限に広がる。言葉ではないけれど、伝わるもの。言葉ではないから、伝わること。秦は「歌詞だけでも、音だけでも伝えきれないと思うことがある。そこでもがいている」。だから、懸命に言葉を選び、選び抜いた言葉を膨らませている。

 病気について、心ないうわさが流れ、徳江は店を追われた。「守れなかった」と打ちのめされた千太郎だったが、徳江が暮らす病院を訪れ、そこで徳江が作ったぜんざいを口にする。傾いていた店を繁盛させた温かい味に、胸を打たれ涙した。あふれる涙をぬぐう千太郎に徳江は「店長さん。おいしいときは笑うのよ」とほほえむ。秦はこの場面を見たとき、〈話せなかったことがたくさんあるんだ 言葉じゃ足りなくて〉という歌詞が浮かんだ。


 「言葉にならない気持ちというのは確かにあって、ひと言で言い尽くせないことだって多い。『大丈夫』という言葉も、明るく言うのか、さみしく言うのか、無理して言っているのかで温度が変わる。だから僕たちは、表情やしぐさ、手をにぎったときのぬくもり、においや感じた色などで、言葉以上のものを交換し合っている」と力を込めた。

 曲で描いた景色を表現するのがステージ。〈ねぇ もしも 君に もう一度 会えるとしたら うまく言えるかな〉。あの日、確かに隣にいた大切な人、そして一歩踏み出すことができなかった自身を回想する。〈話せなかったことがたくさんあるんだ 言葉じゃ足りなくて〉。交わした言葉を思い出すように、言えなかった気持ちに、心の傷がうずく。開いていくにつれ、顔に苦悩が浮かぶ。〈生きてくことに意味があるなら ただ ひたむきであれたら〉。吐き出した気持ち、向き合った思い。わき出す感情。誰かの背中をそっとさするように、マイクスタンドに優しく右手を置き歌う。

 真摯な姿がその言葉を求めていた人の心に刺さり、かけがえのないものに変わっていく。--河瀬監督から「映画が伝えようとしていたことの続きを、(映画の)観客に手渡してくれる曲になった」と声をかけられた。フィルムを切ったら血が噴き出す。秦が命を削り生み出した言葉や曲も血管が張り巡らされ、どくどくとした血が流れている。


 山下町にあるライブハウスに立ち歌い始めたのは18歳のとき。歌詞を記したノートを譜面台に置き、アコースティックギターを手に舞台に上がった。自分だけの世界を初めて、外に向け発信した充実感はあったが、届いていない気がした。悩んでいたとき、ライブハウスの店長に「歌は歌った瞬間に、自分の手を離れて聴いた人のものになる」と助言された。ノートに向かう手が止まったこともあった。そのときに「誰もが想像できる景色を描こう」と意識を変えた。

 シングルのカップリングにはヒットした「アイ」も並ぶ。目に見えない「アイ」を信じたれると心を揺らした出会いに、〈はじめからあなたを 探していたんだよ〉と貫こうとするが、〈ただいとしくて だけど怖くて 今にもあなたが消えてしまいそうで 夢のように〉と不安をつづる。「幸せ。だけどそれだけじゃ足りない。得れば失うのでないか。一緒にいるからこそ感じる寂しさを描きたかった。相反するものを同時に描くことができなければ、自分の『アイ』じゃない。感情は表裏一体だから」。

 新収録した「アイ」では、シンガー・ソングライターのKANと共演。切ない歌声が心をとらえる。KANの柔らかいピアノ、コーラスは、いとしいけれど、いとしい分だけこわいと震える気持ちを優しく包む。秦は「アコースティックギターで弾いていたオリジナルの『アイ』とは違う表情を、KANさんとの共演で感じることができました」と新たな表現を手にしたよう。2016年秋にはデビュー10年目を迎える。「自分らしさを、自分で作らず、聴いてくれた人の心に沿うことができる曲を書いていきたい。小学生みたいだけど、楽しくやっていきたい」と笑った。【西村綾乃】

 はた・もとひろ。1980年10月11日、宮崎県生まれ。小学2年生のとき、横浜市青葉区に移住。小学6年生のときに、アコースティックギターに出合う。1999年から山下町にあるライブハウス「F.A.D YOKOHAMA」で歌うように。2006年11月、シングル「シンクロ」でデビューし、「鱗(うろこ)」(07年)、「アイ」(10年)などのヒットで注目を集めるようになる。2014年に公開されたアニメ映画「STAND BY ME ドラえもん」の主題歌「ひまわりの約束」が自身最大のヒットに。映画は6月現在、中国でも公開されている。18枚目のシングル「水彩の月」は「第68回カンヌ国際映画祭」の「ある視点」部門に正式出品された映画「あん」の主題歌。




秦基博。新シングル「水彩の月」DVD付き初回盤のジャケット
秦基博。新シングル「水彩の月」DVD付き初回盤のジャケット

秦基博。新シングル「水彩の月」通常盤のジャケット
秦基博。新シングル「水彩の月」通常盤のジャケット

全国公開中の映画「あん」の1場面。(配給:エレファントハウス) (C)2015 映画『あん』製作委員会/COMME DES CINEMAS/TWENTY TWENTY VISION/ZDF-ARTE
全国公開中の映画「あん」の1場面。(配給:エレファントハウス) (C)2015 映画『あん』製作委員会/COMME DES CINEMAS/TWENTY TWENTY VISION/ZDF-ARTE

全国公開中の映画「あん」の1場面。(配給:エレファントハウス) (C)2015 映画『あん』製作委員会/COMME DES CINEMAS/TWENTY TWENTY VISION/ZDF-ARTE
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