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鎌倉近美の遺産(上) 灰からダイヤ生む情熱  
素晴らしい建築と相まって 水沢勉館長に聞く

  

 


開館当時の県立近代美術館鎌倉
開館当時の県立近代美術館鎌倉


 神奈川県立近代美術館の鎌倉館は、20世紀日本を代表する建築家のひとり坂倉準三の設計により1951年に鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に建てられました。

 50年代の建築デザインを代表する作品としての価値を有するものとして、国内外で高い評価を得ています。まだ戦争の傷痕が残る敗戦後まもない時期に美術館、音楽堂、図書館を県民のために建設するという当時の県知事内山岩太郎が下した英断は、人間が文化でこそ誇りと自信を取り戻すことができるという歴史の教える真実を、自身戦前にヨーロッパに長期滞在することで身にしみて知っていたからこそのものでした。

 こうしてニューヨーク(29年)、パリ(42年)についで、驚くべきことに神奈川県の鎌倉の地に、世界で3番目の「近代美術」(当時、それは「現代美術」にほかなりませんでした)を名称に冠する美術館が誕生したのです。ニューヨークの近代美術館に遅れることわずか22年のことでした。翌年、東京の京橋に「国立近代美術館」が開館します。

 坂倉は師であるル・コルビュジエに先んじて美術館を設計することになりました。ル・コルビュジエ自身、上野の西洋美術館の設計を依頼され、54年に初来日したとき、イサム・ノグチの「こけし」(51年作)の設置された中庭にしばしたたずんだといわれています。世界遺産登録を目指す西洋美術館に弟子の逆影響を指摘する建築史家もいます。

 とりわけ、中庭から、平家池へと視線が完全にさえぎられることなく連続していく開放感にあふれた空間体験は、聖なるものと美しいものとをむすびつけ、場所の特性をみごとに生かしたもので、多くの来館者から絶賛されています。この建築の最もお薦めの見どころといってよいでしょう。

 もちろん、建物だけでは、美術館はなりたちません。60年以上の長い年月にわたって継続されてきた美術館の活動がそこに盛り込まれて、はじめて十全に機能するのです。開館してから1年間に22回もの企画展をつぎつぎに開催した美術館スタッフの情熱は灰のなかにダイヤモンドを生むものであったといっても大げさではないでしょう。当初、美術作品の購入費は予算化されていませんでしたが、活発な展覧会活動によって多くの寄贈の申し入れがあったこともあり、現在では、1万4千点を超えるものに成長いたしました。

 坂倉準三の素晴らしい建築も、こうした活動と一体化することによって、存在感を増し、世界的な評価を得ることができたのだと思います。閉館にあたり、その65年の足跡を、通年の展覧会として、開館時にさかのぼるように3部に分けてたどります。名づけて「鎌倉からはじまった。1951-2016」。ぜひ多くのひとに見ていただき、そこからなにか大切なことをともに発見し、学び、未来を考えるヒントを得たいとわたし自身楽しみにしています。

 県立近代美術館鎌倉(鎌倉市雪ノ下)は、県の施設集約化を受け、鶴岡八幡宮との借地契約終了に伴って2016年3月31日で閉館する。「鎌倉近美」と親しく呼ばれ、日本最初の公立近代美術館として果たしてきた役割を振り返り、存在意義を確かめる。

 

みずさわ・つとむ 1952年横浜市生まれ。慶応義塾大大学院修了後、78年県立近代美術館に勤務。2004年サンパウロ・ビエンナーレの日本コミッショナー、08年横浜トリエンナーレの総合ディレクターを務める。11年館長に就任。

 

「鎌倉からはじまった。1951-2016」展は所蔵品を中心に同館の歩みを3期に分けて紹介。「PART1:1985-2016近代美術館のこれから」は11日~6月21日。同館で1985年以降に開催した展覧会を取り上げる。祝日を除く月曜休館。一般1000円、20歳未満・学生850円、65歳以上500円、高校生100円。問い合わせは同館電話0467(22)5000。

鎌倉近美の遺産(中)民主社会の軽やかさ モダニズム建築の「思想」



 


平家池にせり出した鎌倉館。白い壁面が軽やかな印象を与え、訪れた者に居心地の良さを感じさせる=鎌倉市雪ノ下
平家池にせり出した鎌倉館。白い壁面が軽やかな印象を与え、訪れた者に居心地の良さを感じさせる=鎌倉市雪ノ下


 平家池に臨む純白のテラス。水紋が反射し、ひさし状にせり出した壁面が揺らめく。池の中には飛び石が配され、そこから鉄骨の列柱が立ち上がり建物を支えている。木造建築の床下にある束(つか)石(いし)のようだ。鶴岡八幡宮の境内に立つ県立近代美術館鎌倉館は、すがすがしい。設計者は坂倉準三(1901~69年)。

 「県立美術館近く完成」と題した1951年9月19日の本紙記事は、次のような書きぶりだった。

 「この美術館は県がわが国最初の近代建築として世界に誇るもので、設計を新近代美術建築の第一人者フランスのル・コルビジュエの高弟、坂倉準三氏に依頼、坂倉氏はこの近代美術の粋を集めた苦心作の模型を、近くブラジルのサンパウロで開かれる世界建築学会に携行することになっている」。戦後6年、欧米に比肩しうる建築が神奈川に誕生する-。記事に挙げられたセザンヌ、ロダン、ルオーら展示作品の芸術家の名と相まって、その自負や期待がにじみ出ていた。

地域を超えた価値

 文中、新近代美術建築とは、今でいうモダニズム建築を指し示す。モダニズムとは単に現代的な、という意味ではない。そこには「思想」がある。

 一つは場所を選ばず、地域的な制約を乗り越え、無駄なく合理的な建物を実現することだった。吉田鋼市・横浜国大名誉教授(建築史)は言う。「砂漠だろうとツンドラだろうと、どこの土地にも気候にも適応することを目指した」。それを可能にした材料がコンクリート、ガラス、鉄のような20世紀を象徴する工業製品、それに空調だった。

 それは西欧風とも日本風とも一線を画する「インターナショナル」。だからこそ、戦後6年の日本に「世界に誇る」建築が実現できたのだった。「没地域性」ともいえるが、それでいて没個性でもない。吉田は、鎌倉館を初めて訪ねたときの印象を覚えている。「すごく文化的な所へ来たなあと思った。坂倉作品の中で最も優れたものの一つ、いや一番かもしれない」

50年代の「時代性」

 モダニズム建築の思想と技術は、欧米や日本の経済発展と歩調を合わせ、地域差どころか重力をも克服するかのように大きく、高く“膨張”していった。どこにでもある超高層ビルがその極限の姿といえる。

 そういう巨大化した最近の建築に比べると、50年代初頭にできた鎌倉館は小さい。松隈洋・京都工芸繊維大教授(建築史)は「だから今も新鮮さが失われていないのだ」と、その「すがすがしさ」を分析する。

 終戦間もない時期の厳しい経済状況がそうさせた面があるとはいえ、節約の産物という消極的な理由だけではなかった。日本の木造建築の「身の丈サイズ」と新時代の素材が融合した、と松隈は考える。このころのモダニズム建築が追求した「思想」のいま一つとは「人間のための建築」だったのだ。

 その思想は、50年代という時代とも合致した。戦後民主主義にとって、とかく権威的と捉えられた芸術文化を身近にすることは、「考える市民」を養うのに不可欠だった。軽やかで明るい建物こそ実践の場といえた。坂倉と同じくル・コルビュジエに学んだ前川國男(1905~86年)が設計し、54年に完成した県立図書館・音楽堂(横浜市西区)にも共通する。

 「だからこそ、残さなければ。50年代に一瞬だけ立ち現れた建築、思想を見失わないために」(松隈)。松隈も吉田も鎌倉館の保存を願うが、その理由は決して「世界的な建築家の“作品”だから」ではない。厳しい財政状況下、あえて美術館や図書館を整備した地域の軌跡だからだ。

 吉田は強調する。「当時の神奈川の実感を伝え、また、60年以上にわたって多くの人が訪れ本物のモダンアートに触れた場所。そういう歴史の証人として、残すべきだと思う」

鎌倉近美の遺産(下) 重ねた経験を次世代へ 酒井忠康元館長に聞く



世田谷美術館の酒井忠康館長は、1964年から県立近代美術館(鎌倉市雪ノ下)の学芸員、後には館長として40年間を鎌倉館で過ごした。同館にまつわる思い出と果たしてきた役割を聞いた。


地域全体で美術館の利用を考えるべきと話す世田谷美術館の酒井忠康館長 =世田谷美術館
地域全体で美術館の利用を考えるべきと話す世田谷美術館の酒井忠康館長 =世田谷美術館


 館長の土方定一のもとで「電話のかけ方から教えてもらった」と酒井。館長を訪ねてくる数々の文化人との交流は、印象深いものばかりだという。
 「(陶芸家の)浜田庄司さんはセンスのいい背広を着ていて、気合の入ったおじさん、という感じでした。(版画家の)棟方志功さんもすごくおしゃれで、黒い帽子をかぶったところはまるでジャン・ギャバンみたいな方。遠くの方に向かって祈るような青森弁でした」

 鎌倉文士の川端康成、小林秀雄、大佛(おさらぎ)次郎らもふらりとやってきては、芸術談議に花を咲かせていた。文化人が多く住まう鎌倉ならではの光景だ。
 同館の設立当時、横浜の野毛と鎌倉とで、どちらに建てるかの議論があった。「当時は鶴岡八幡宮の境内でも国有地だったと聞いています。地元をあげての熱心な勧誘があり、鎌倉の熱意に負けたようです。その後、土地は鶴岡八幡宮に払い下げられた」という。

 86年に交わされた土地の貸借契約更新は酒井の目の前で行われた。30年という貸借期間について「長期契約で便宜をはかってくれた点で、八幡宮は太っ腹でした。30年もあったのに、その間に明確な対策を打ち出せなかったのは代替地の見通しが立たなかったから」という。

厳しい公立美術館

 「公立の美術館は財政的に厳しい中でどこもよくやっています。文化的なことにお金がかかるのは当たり前。文化施設はもうけることが前提ではないのに、そう考えない人もいます」
 鎌倉は日本の近代美術の発掘、調査をメーンとしてきたが、分岐点となった展覧会が1969年の「パウル・クレー展」、70年の「エドワルド・ムンク展」だ。


1970年に開催された「エドワルド・ムンク展」のポスター
1970年に開催された「エドワルド・ムンク展」のポスター


 「どちらも10万人近い観客が押し寄せました。鎌倉の床は、力士が3人来て跳び上がったら落ちるといわれたほど弱かった。受付のところで入場制限をして対応しました」。これを契機に、世界の近現代作家による大型展覧会で収益を上げる側面にも力を入れざるを得なくなった。

 美術館として重要なのは経験だと明言する。「どんなに建物が立派でも、経験が生かされなければ意味はない。学芸員だけでなく、切符切りの人、掃除をする人、警備員など、裏方として美術館を支えてきた人たちがいます。その積み重ねた経験を、次世代の美術館へ渡すことは大きな役目です」

役目果たした鎌倉館

 戦後間もなく建てられた鎌倉館が、近代化が進むと時代遅れの施設になるのは仕方がなかった。「エレベーターがないので作品はすべて人力で2階の展示室に運びました。雨漏りもひどくて、バケツを持って走り回ったこともありました」と振り返る。

 美術館の運営委員会メンバーだった日本画家の平山郁夫が「鎌倉がみっともない形で閉じるのはよくないから、みっともなくなる前に閉じよう」と提案。新館建設の話が進んだ。「2004年に葉山館ができたときは、涙が出るくらいうれしかった」と酒井。

 葉山館の開館から10年、問題となったのは、交通の便が悪いままで国や県、町全体でのまちづくりができていないことだ。11年の東日本大震災を受けて、海岸に立つ葉山館は津波被害も考慮しなければならない。「この10年くらいの間に他の場所に移った方がいいかもしれない」と憂慮する。

 「鎌倉館は近代美術館としての役割は果たした。『お疲れさま』とねぎらって、移築、保存するのが理想」と愛着ある職場への思いは尽きない。

 

さかい・ただやす 1941年北海道生まれ。慶応義塾大文学部卒。64年県立近代美術館学芸員、92年館長を経て、2004年から現職。近著に「鍵のない館長の抽出」(求龍堂)、「ある日の画家 それぞれの時」(未知谷)など多数。逗子市在住。







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