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飛鳥田一雄生誕100年<上> 市民の声聞き国動かす

政治行政 神奈川新聞  2015年04月02日 11:43

現職の半井清氏を破り、横浜市長に初当選した飛鳥田氏(中央)=1963年4月
現職の半井清氏を破り、横浜市長に初当選した飛鳥田氏(中央)=1963年4月

 東京五輪前年の1963年に横浜市長に選ばれた飛鳥田一雄は「市民の声を聞く」を信念に公害や基地問題で国や企業と真正面から向かい合った。「地方の時代」を唱えた長洲一二を神奈川県知事に押し上げるなど、革新自治体の「ゴッドファーザー」と呼ばれた飛鳥田が生まれ、きょうでちょうど100年。地域のことを自分たちで考える地方自治は「民主主義の学校」といわれる。基地や原発をめぐり、国と地方の関係があらためて問われる中、4年に1度の統一地方選が始まった。飛鳥田のブレーンだった1人と、分権とは何か、自治とは何かを考える。


 後に美濃部(亮吉)都政の政策集団となる東京都政調査会で自治体・都市問題を研究していた鳴海正泰(83)=関東学院大名誉教授=は31歳の時に横浜市役所に入った。市長になったばかりの飛鳥田に「政策ブレーンになってほしい」と請われた。

 社会党左派の衆院議員だった飛鳥田は「安保5人男」と呼ばれ、国会で論客として鳴らした。一方で街づくりなど行政経験はない。当初の政策らしい政策は選挙で公約として掲げた「1万人市民集会」ぐらいだった。

 国会議員として60年安保を経験し、間接民主主義の限界を感じたという飛鳥田は地方自治体での住民自治に理想を求める。「1万人集会」は今でこそ当たり前とされている“市民参加”を実践する試みだった。

 「議会軽視」「議会制民主主義の否定だ」。市会で4度否決された末、市民が自主的に行うという形で「1万人集会」は1967年から2回行われた。

 鳴海は言う。「大都市での市民参加、市民自治がいかにあるべきかの問題提起だった。今も宿題は続いているように思う」


 1万人集会の実現に奔走した鳴海は、既定の市の総合計画とは別に飛鳥田と横浜の都市づくりの将来構想づくりに動きだす。6大事業である。

【6大事業構想】
■都心地区(MM21)整備計画
■港北ニュータウン計画
■富岡・金沢地先埋め立て計画
■都市高速度鉄道(市営地下鉄)計画
■都市高速道路計画
■横浜ベイブリッジ計画

 「当時、総合計画はあったが、ほとんどが国の補助事業を中心とした土木計画だった」。横浜の中心部は米軍の接収による影響で整備が遅れ「関内砂漠」などと揶揄(やゆ)された。一方で、高度経済成長期と重なり、郊外部では住宅を求め、人口が急増していた。

 鳴海は知人である浅田孝を飛鳥田に紹介する。浅田の主宰する「環境開発センター」は黒川紀章、栄久庵憲司、粟津潔ら気鋭の建築家やグラフィック、産業デザイナーの集団だった。その中に、後に横浜市入りし、6大事業を推進した都市プランナーの田村明がいた。

 65年の公表時、「夢のような話だ」と庁内でも受け止められた。鳴海は「国の計画の受け皿ではなく、市が抱えていた課題を解決するための独自の長期戦略だった」と振り返る。

 構想が打ち出されて今年で半世紀。事業の一つであるみなとみらい21(MM21)地区はミナト横浜を象徴する場となり、総仕上げの段階に入っている。

要綱行政


 飛鳥田が市長を務めた時期、日本経済は右肩上がりの成長を続けていた。東京のベッドタウンとして横浜は年間に10万人という異常な人口増に直面する。

 東急電鉄は、田園都市線沿線を開発して大々的に売りに出そうとしていた。街の完成予想模型に学校などの公共施設を盛り込み、消費を喚起していた。寝耳に水の鳴海は慌てて飛鳥田に報告した。

 当時、学校建設は市内全域で急務だった。加えてごみ処理問題、公害への懸念も大きな課題だった。しかし、当の市は財源も権限も乏しい。

 「現場で問題に直面しているのは市なのに、公害対策の権限などは県にあり政令市にはない。国の法律では解決できない課題が次々と起き、国の縦割り行政を超えて市民生活を守る最前線に立たされていた」と鳴海は回想する。

 東急との交渉では学校用地を市に無償で提供してもらうなどの覚書を交わし支出を抑えつつ、快適な街づくりに努めた。東急との覚書を機に知恵を絞って考え出したのが「市が要綱で定める」という手法だった。自治体行政は基本的には国会の定める法と、地方議会が定める条例に基づいて行われるが、それらに定めがなくても緊急に自治体の長が必要とすることを「要綱」として実施できる。

 市内全域で乱開発に規制を掛ける「宅地開発要綱」を策定。横浜の要綱行政の始まりだった。

 こうした手法を駆使した田村は著作「都市プランナー 田村明の闘い-横浜〈市民の政府〉をめざして」で、国とのやりとりをこう記している。

 〈建設省宅地部長は言った。「横浜市はいつから独立国になったのかね」。私は言った。「国は一向にその対応をしないではないか」。「そんなに言うことを聞かないなら、補助金をやらないぞ」。「やってみればいい。国が乱開発に無策なために、なんとか切り抜けようとしている自治体の知恵を、潰(つぶ)してもいいものかどうか、世論の判定をうければよい」〉
 要綱行政について、鳴海は言う。「新しい都市問題がどんどん起きていたが、都市計画法、公害関係法、宅地造成法も対応できない。市民が求める問題を解決するため、自治体の権限が及ばないことにも乗り出すべきだと考えた」

 用途地域別に目標日照時間を定めた日照等指導要綱、「横浜方式」と呼ばれ全国に波及した公害防止協定、山林を残す仕組みも設けた。

 日本橋の上空に高速道路を通していた時代に、都市景観でも国と激しく交渉した。空をふさぎ、街の美観を損ねるとして国の高架計画を変更させ、市心部の一部の高速道路を半地下にした。JR関内駅から南西に真っすぐに延びる「緑の軸線」として今の大通り公園がある。

 時代とともに美しい街並みへの市民の関心は高まる。国が景観法を施行したのは2005年である。

 =敬称略

なるみ・まさやす 1931年生まれ。東北大卒。東京都政調査会研究員を経て、63年に飛鳥田市政誕生を機に横浜市役所入庁。企画調整局専任主幹などを務めた。


「1万人市民集会」で横浜文化体育館(中区)に集まった市民の質問に答える飛鳥田市長(当時)=1967年10月
「1万人市民集会」で横浜文化体育館(中区)に集まった市民の質問に答える飛鳥田市長(当時)=1967年10月

鳴海正泰 関東学院大名誉教授
鳴海正泰 関東学院大名誉教授

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