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ミナトのおかみ・木村順子
【ひとすじ】まちに球団がある幸せ(上)

社会 神奈川新聞  2015年03月31日 12:38

夫亡き後、店を切り盛りする木村順子さん=横浜市中区の「すだち」
夫亡き後、店を切り盛りする木村順子さん=横浜市中区の「すだち」

 野球は失敗のスポーツだ。

 プロフェッショナル・ベースボールの世界においても、10度の打席で3度快打を飛ばせば成功者の称号は手に入る。7度の失敗ははなから許されている。

 横浜は寛容のまちだ。

 いまでは人口371万、全国2位の巨大都市も150年前、開港当時は100戸に満たない寒村だった。京浜工業地帯を支える労働者として、東京に近接するベッドタウンの住人として人々は集い、そもそも自分たちからしてよそ者だから、あとから入ってくる者や文化を受容し、優しく包み込む。

 そんなミナト町に横浜DeNAベイスターズは、だからふさわしいのかもしれなかった。

 「ベイのファンはどんなに勝てなくても応援し続ける。どんなひどい負け方をしても、少しでもいいところを見ようとする。前向きなのよね」

 日本料理屋「すだち」のおかみ、木村順子(65)はそう言って目元を緩めた。

 勝ち続けの人生なんて、誰だって望むべくもないのだから-。

 38年ぶりの歓喜に沸いた1998年の日本一から17年、12球団で唯一果たせずにいるクライマックスシリーズ進出を目指す2015年シーズン、その本拠地開幕戦を控えた夜、横浜スタジアムがひっそりと息をしている。


 汽笛が郷愁を誘うミナトまでひと足、ガス灯やアイスクリームの日本発祥の地と伝わる馬車道から路地を折れた角に「すだち」はある。

 入り口の引き戸ががらりと音をたて、よく通る声が店の奥まで響いた。

 「おかあさん、いるかい」

 杯を重ねるカウンターから玄関を振り返る客はいない。調理場から順子が応じる。

 「あら、三浦君」

 声の主は背番号18「ハマの番長」、三浦大輔。

 「近くを通りがかったからと顔をみせてくれる。食事をしたしない、お酒を飲んだ飲まないじゃない。声だけでも聞かせてくれる、その心遣いがうれしい」

 順子がいたずらっぽく笑う。

 「これまでは『おかあさん』なんて呼ばせなかったけどね」

 店は昨年、40周年の節目を迎えていた。

 30種類の具材に野菜だしのスープの甘みがしみる寄せ鍋と秘伝のタレもさわやかなカツオの土佐造りが自慢の逸品。松原誠、山下大輔、田代富雄といった往年のハマのスタープレーヤーが古くからひいきにし、家族を連れだってのれんをくぐる現役選手や球団関係者も少なくない。

 20人ほどでいっぱいになる店は玄関で靴を脱いでいると決まって順子が出迎えてくれる。

 「ただいま、と自分の家に帰って来たような場所でありたい。だから『あ、松原だ』なんて無粋なお客さんには、ちゃんと『さん』を付けて呼びなさいとしかるの」

 心安らぐ家庭-。それは故郷を遠く感じ続けた夫、裕詩(ゆうじ)が望んだものでもあった。


 敗戦の年、九州・福岡は炭鉱のまち、直方(のうがた)に生まれた。

 父は新聞記者。高校生の時、母が生みの親ではないと知る。家出。東京・日比谷公園で寝泊まりする日々。空腹に飲食店で働くことを思いつく。そうして始まった料理人人生。

 2人は下積み中の板前とバイトの女子短大生として出会った。ほどなく結ばれ、実家に日参しては父と酒を酌み交わす裕詩の姿に家庭というものへの飢え、心の空洞を順子は感じ取った。

 「料理人も野球選手も腕を頼りに生きていく男の世界。でも、それだけじゃない。華やかなプロの選手も聞けば苦労して育った人が少なくない。松原さんは早くに父親を亡くしている。田代さんもプロになって初めてお母さんをすし屋に連れて行くことができ、そこで好きなものを注文させたら、かんぴょう巻きを頼んだんだって。互いの境遇にも相通じるものがあったのかもしれない」

 味だけじゃない、夫の人柄までが愛されたわけを順子はそう考える。

 まだ川崎が本拠地だった大洋ホエールズに裕詩のいとこが入団したことがきっかけで始まった選手との付き合いだった。独立を果たし、関内に店を構えた4年後の1978年、球団が横浜へ移転してくるとそれは濃密なものになってゆく。

 裕詩は店そっちのけでスタジアムに足を運び、バックネット裏の最前列で声をからした。夜な夜な選手と飲み歩き、試合に負ければ口もきかないほどむくれ、どんなにひどい負け方をしても選手が店に顔を出せば、たちまち機嫌は直った。さんざんごちそうし、また夜のまちへと繰り出していく。


在りし日の裕詩さん(左)。山下大輔が監督に就任すると沖縄・宜野湾キャンプに応援に飛んだ(木村順子さん提供)
在りし日の裕詩さん(左)。山下大輔が監督に就任すると沖縄・宜野湾キャンプに応援に飛んだ(木村順子さん提供)

 順子は見守った。

 「料理も職人の厳しい世界。逃げ場も必要なのかな、と」

 それも限度があった。

 「店を畳もうと思ったことが2度ほどあった。でも、よくしてくれた選手に申し訳ないという思いで続けることができたの」

 やがてジンクスが生まれる。

 1軍に上がりたての若手が先輩に連れられて店へやって来る。一緒に寄せ鍋をつつけば、必ず1軍に残れる-。

 店の名の通り、ハマの「おやじさん」「おかみさん」に見守られ、多くの若者が巣立っていった。「地方出身、とくに九州出身をかわいがってね」。最近では村田修一や吉村裕基、内川聖一がそう。もっとも3人とも巨人、ソフトバンクと他球団に移籍した後、日本一に輝くことになるのだが。


 人は夢を胸にミナトに集い、そして別れゆく。

 2008年2月18日、永眠-。

 享年62の早すぎる死。肝硬変だった。

 いよいよ危ないと宣告され、順子は1日3人ずつ選手に面会を頼んだという。最期のお別れのつもりだった。ある選手が「おやじさん、いま何が欲しい」と尋ねると、裕詩はトレーニングウエアとシューズをリクエストした。リハビリのための一式はただちに枕元に届けられた。するとみるみる元気を取り戻し、一時帰宅できるまでになった。「春のキャンプを沖縄に見にいくぞ、と勢いづいて。驚いた。みんなの力、すごいなって」

 選手と飲み歩いた日々は寿命を縮めたに違いない。でも、それを不幸だったとは思わない。

 「それだけ夢中になれたのだから」

 それから7年、順子もまた、このまちに生かされていると感じていた。まちにプロ野球球団がある幸せを感じながら。 =敬称略


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