1. ホーム
  2. 凍土を穿つ
  3. 凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<20>やっとたどり着いた


凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<20>やっとたどり着いた

フォロー・シェアボタン

神奈川新聞  2005年11月27日公開  

抑留の記憶を語った関谷義一。「今までつらくて話せなかったね。死んでいった戦友に申し訳ないから」=長野県上田市
抑留の記憶を語った関谷義一。「今までつらくて話せなかったね。死んでいった戦友に申し訳ないから」=長野県上田市

「今の方が下手だね」と、関谷義一(87)=長野県長和町=は謙遜してはにかむ。彼は「空道」と号する書道家でもある。神奈川新聞社の総務部に在籍したころは、社員の辞令を書くのも仕事だった。端正で流れるような筆致に人柄が表れていた、とかつての同僚は言う。

 関谷が入社した1953年当時、本社は朝日新聞横浜支局の一角にあった。元の社屋は戦災で焼失していた。「会社としての体裁が整っていなかったねえ」。関谷は法務を学び、株式会社組織とは何かを一から勉強した。入社4年目の56年12月11日には、本社の印刷工場が全焼。「あのときも朝日のご厄介になりました」。何とか一日も休まず、新聞発行にこぎ着けた。

 「新聞社でも折あるごとに思い出しましたよ、何かにぶつかったとき…」。あのときの三つの穴を。

 シベリア抑留で最初に連れて来られた地、チパリ。氷点下何十度の屋外で、柱を立てるための穴を掘らされた。ノルマは1日に3カ所。凍土は重い鉄棒をもはじき返す硬さだった。関谷はその苦役に耐え、隣にいた年老いた捕虜の分まで引き受けた。「お互い助け合う、それが全て。そうすれば、支えてくれる人が必ずおるんです」と。

 その捕虜は、幾度となく関谷に言って聞かせた。彼は学者だった。

 「私はとても帰れないが、あなたは帰って新しい時代に生きるだろう。世の中はどう変わるか分からない。だから大学だけは出ておきなさい」

 関谷が夢に見た帰郷からたった2カ月で上京したのは、その言葉を忘れなかったからだ。

 ほかの捕虜をいたわってノルマを代わり、それがソ連兵の琴線に触れて自らを助けた因果応報。一つの奇跡かもしれないその経験を、しかし関谷は決して吹聴しなかった。自爆、射殺、凍死、衰弱死という数え切れない戦友の死が、自らの生と裏腹に存在していた。老学者とも、それきりになった。「確かでないんだけれど、まもなく亡くなったらしいんだね…」

 昨夏、関谷が初めて抑留経験について口を開いたとき「ようやくたどり着いた」とつぶやいた。記憶の重荷を下ろすのに、70年という時間を費やさねばならなかった。

 =敬称略

 〈おわり〉


 ナホトカからの復員船は、3日の航海で京都・舞鶴港に着く。

 舞鶴港は戦時中、旧海軍の軍事拠点だった。戦後は1945年10月、最初の引き揚げ船が朝鮮半島・釜山から入港。シベリアからは46年12月、第1陣復員船として「大久丸」(2555人乗船)と「恵山丸」(2445人)が着岸した。終戦以来、舞鶴は13年間にわたって約66万人の引き揚げ者・復員兵を迎え入れた。

 88年4月、その歴史を後世に伝えるべく京都府舞鶴市が「舞鶴引揚記念館」を開設した。シベリアの捕虜が着たコートや防寒着、シラカバの皮に書き付けた日記、「岸壁の母」のモデルである故・端野いせが息子に宛てた手紙など約千点を常設展示している。

 ソ連側は元捕虜をナホトカから乗船させる際、私物を没収した。そのために、抑留の歴史は抑留された人たちの記憶に頼る部分が大きい。

 昨年6月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国内委員会が、世界記憶遺産の候補に舞鶴市が申請したシベリア抑留に関する資料を選んだ。ユネスコは今夏、登録の可否を発表する。

 戦後70年。シベリアの凍土に日が差すだろうか。

【神奈川新聞】


シェアする