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原発避難者の思い<上> 原点へ「娘を守る」

社会 神奈川新聞  2015年03月13日 03:00

震災追悼イベントの壇上で、目に涙を浮かべながら今の心境を語る鹿目さん=10日、横浜市中区
震災追悼イベントの壇上で、目に涙を浮かべながら今の心境を語る鹿目さん=10日、横浜市中区

 東京電力福島第1原発事故で福島を追われ、相模原市緑区の実家で避難生活を送る鹿目(かのめ)久美さん(47)は言う。「4年がたち、娘を守りたいという原点にもう一度戻ってきた」。福島と避難者の現状を知ってほしいと語り部を務めるその人の言葉から伝わるのは、惑い、自身と向き合い続けた年月の重みだ。

 11日、自分が福島で被災し、実家に避難している身であることを職場で打ち明けました。2月に始めたばかりの仕事ですが、仲間にはちゃんと話したいと思ったのです。

 震災から4年の節目、5年目が始まる日、そしてすべてを狂わされた3月11日という日。その日を少しでも意味のあるものにしたかったのかもしれません。

 新しい出会いがあるたび、自分が避難者だと明かすことをためらい続けてきました。

 原発から60キロ離れた大玉村で夫と当時4歳の娘と暮らしていました。震災直後は停電でテレビが見られず、原子炉建屋の爆発を知りませんでした。娘を外に連れ出し、大量に被ばくさせてしまった。その自覚があります。

 これ以上はわずかでも被ばくをさせたくないという思いで、母子で避難することを決めました。自宅は避難区域外にあり、いわゆる自主避難。家のローンが残っており、夫は職場を離れるわけにいかず、1人残って働き続けています。

 理解されないと思った。避難区域じゃないのになぜと聞かれ、説明できる自信がなかった。放射能の影響を力説しても引かれる気がした。かわいそうな被災者という目で見られるのが嫌だった時期もありました。

 昼の休憩時間に6人の同僚に話をしました。緊張しましたが、「今日という日に話してもらえてうれしかった」と温かく受け止めてもらえてうれしかった。

 この問題の難しさをあらためて感じもしました。話をするうち、1人の表情が曇っていきました。福島県郡山市に子育て中の友人がいるそうで、「避難できている人はいいけれど…」と複雑な気持ちになったといいます。

 分かる。実家に避難できた私は恵まれている。私にも大事な友人たちが福島にいる。子育てに不安を感じ、迷っている人がいる。でも声に出せない。思っていることを口にするとどこかで誰かが傷ついてしまうから。原発問題の難しさは、ここにあるのです。

 事故で拡散した放射性物質の影響を心配し、福島産の野菜を食べないと決める。すると農家が傷つく。放射線量の高い場所で子育てはできないと避難の正当性を説く。すると福島で暮らしている人が傷つく。ただ自分の思うところで生きていきたいだけなのに。

 でも、これからは差し障りのある話でもしていこうと決めました。耳障りな言葉であっても投げ掛けることが大事なのだと思います。それは前日の出来事があったからかもしれません。


 私が語り部になってきたのは、福島の避難者の現状を知ってもらいたかったから。10日に横浜であった震災追悼イベントでは、これまでと少し違う話をしました。

 それは次のようなものでした。

 〈私はこうして話す機会を与えてもらうたび、何か意味のあるメッセージを伝えなければと思ってきました。きょう、本当に伝えたいものに気付きました。私は自分の未来が見えなくなったからつらいのではない。安心して暮らせないからつらいのではない。大切な娘の命や健康が危険にさらされた。それが悔しいのだ、と気付きました〉

 自然に囲まれた福島での暮らしはいまも恋しい。中ぶらりんの避難生活の先行きに不安を感じている。でも、それを伝えるために私は話をしているんじゃない。なぜここにいて、何をしたいのかを考えるうち、娘のことが頭に浮かびました。

 福島を離れたのは娘を守りたいからだった、と。その当たり前のことをいつの間にか後回しにして語っていた自分に、気付きました。

 これまで「いい話をしてくれてありがとう」と言われ、複雑な思いをすることが少なくありませんでした。話をして褒められることを望んでいるわけじゃないから。

 避難するしないも、放射能の不安を抱えながら福島に残るか、福島を離れる代わりに家族離れ離れになるか、というどちらも選びたくない選択肢から選ばされたにすぎない。

 この日、話した後の反応が違いました。初老の女性に「共感しました」と声を掛けられた。泣きながら話し掛けてくるおじさんもいた。伝わった手応えがありました。

 いろんなことをいろんな言葉で話してきたけれど、理屈をこねる必要はなかった。子どもを犠牲にしたくない。その思いをストレートに伝えれば、自分の行動の訳を分かってもらえる。何も放射能のことを話さなくてもよかったのです。


 そもそも自分は少数者になった覚悟があったはずでした。震災後最初の夏休みに帰省中だった実家から福島に戻らない、と決めた。つまり娘をもう幼稚園に通わせないと決断した瞬間、「当たり前」から外れたと思いました。すべては娘の「福島は怖いから戻りたくない」というひと言で私の生きる道が決まったのです。

 振り返れば、それでも人の求めに応えようととらわれてきた自分がいます。

 私の話を聞きに来る人はきっと、希望を見たいのだと思ってきた。それには避難者としての私が困難を抱えながら、生き生きとしている姿を見せることだと思ってきました。

 希望を見たいのは私自身の願いでもありました。原発事故で大変な思いをしているけれど、頑張れている、と。だから前向きな自分をどこかで演じてきました。

 分かってもいました。

 娘のことを話そうと思ったとき、取り乱さずにいられる自信がなかった。娘を一生守っていこうと決めたはずなのに、十分できている自分、できていない自分がいる。いつも前向きでいられるわけじゃない。泣きたい夜もある。そんな駄目な自分をさらし、言葉にすることで向き合うのはやはりつらい。

 だから希望を見る方へと自分を仕向けてきた。つまり逃げていた。

 2月下旬に被ばく健診を受けてきました。喉元に検査器具をあてがわれ、甲状腺がんの検査を受けるわが子の姿に涙が出ます。しかも今回異常がなくても、将来の不安が消えるわけじゃない。背負わせなくていいものを背負わせてしまったことを実感する瞬間です。

 私は〈大切な娘の命や健康が危険にさらされたことが悔しい〉と言いました。

 では、そうした感情を向ける相手は誰なのか。政治や社会システムといくつもあるけれど、一つは無関心な世間。日本に原発が50基以上もあるとどれだけの人が知っていたでしょう。正直、私も知らなかった。だから悔しさを向ける対象は、無知だった自分自身でもあるのです。

【神奈川新聞】


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