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東日本大震災4年
福島へ帰還か否か… 復興支援員・鈴木恵輔さん

社会 神奈川新聞  2015年03月12日 17:51

復興支援員が活動拠点を置く事務所で打ち合わせをする鈴木さん=藤沢市
復興支援員が活動拠点を置く事務所で打ち合わせをする鈴木さん=藤沢市

 東日本大震災から4年。被災者として、復興支援員として、震災と向き合う男性がいる。福島県浪江町を離れ、横浜市青葉区で避難生活を送る鈴木恵輔さん(30)。東京電力福島第1原発事故で故郷を追われ、昨年9月からは自身同様、福島県外に出た町民の相談に耳を傾ける日々。帰還か、否か-。自らも揺れ動きながら、進む道を探っている。



 浪江町が持つ避難者リストを基に電話をかけ、了解が得られれば自宅へ赴き、尋ねる。

 「最近、どうですか」

 イントネーションがもたらす同郷の安心感。「ええ、同じ浪江の言葉というだけで心を開いてもらえる」。ちょっと誇らしげな笑みを鈴木さんは浮かべた。

 原発事故で全国に散り散りになった浪江町民。そのもとを訪ね歩き、近況を聞くことで行政に対する要望、不満を把握し、町の支援策に反映させる。その橋渡しとなる復興支援員、町の非常勤職員として任命された29人のうちの1人。

 心身とも疲弊し切った避難者がいて、避難先の自治体に連絡して保健師を派遣してもらったこともある。鈴木さんは神奈川、山梨両県と都内で暮らす避難者を3人で担当する。

 募集のちらしを目にしたのは、横浜での避難生活も3年半が経過していた昨年夏のことだった。当時の思いをこう振り返る。

 「自分が決断するきっかけになればと思った」

 帰還か否か、決めきれずにいる自分がもどかしかった。

■中ぶらりん

 4年前のあの日、福島第1原発にいた。地元の塗装会社の社員だった。原子炉建屋周辺の電線管の塗装に当たっていた。サビ防止の作業だった。

 午後2時46分。立っていることもままならなかったが、落ち着いてもいた。

 「原発の近くにいれば安全だ、と。頑丈に造られているから建物が壊れることはないと信じていた」

 原発から車で15分ほどの実家で母と祖母と暮らしていた。翌日、町内放送で避難の呼び掛けを聞き、南相馬市の親戚宅へ向かった。そこで目にした1号機が爆発するニュース映像。

 「現実のこととは思えなかった」

 生まれ育ち、前日まで寝起きしたわが家への帰還はもうかなわないとすぐに悟った。

 避難先に横浜を選んだのは妹夫妻が港北区に暮らしていたから。祖母はほかの親族に引き取られ、県が用意した借り上げ住宅で母との暮らしが始まった。

 介護福祉士の母はすぐに働き口を見つけた。鈴木さんは家で過ごす日々が続いていた。塗装会社は休業状態。中ぶらりんの避難生活で新しい仕事を探す気にもなれなかった。

 家で過ごしていると孤独に襲われた。「社会に必要とされていないのでは」という疎外感。「この先、どうなってしまうんだろう」という不安。「余計なことを考えないように」となるべく一人でいないよう心掛けた。

 募る望郷の念。高校卒業後、都会への憧れから都内の携帯電話販売店で契約社員として働いた。気づいたのはふるさとの居心地の良さ。「家族や友人、親戚がそばにいる安心感」。5年で戻り、浪江町で一生を送ると決めた。

 福島県内に戻る友人もいた。だが、拡散した放射性物質の影響への不安がぬぐえない。「将来は家庭を持ちたい。結婚して、子どもができたとき、原発の近くで育てていいものなのか。あえてリスクを取る必要があるのか」

 答えが出ないまま1年、また1年と年月を重ねた。

■見えぬ本音

 震災前の浪江町の人口は約2万1千人。原発事故後、町民はすべて避難し、7割が福島県内、3割が県外に出た。昨年8月、町が避難者を対象に実施した帰還意向調査では、半数近くが「戻らないと決めている」と回答する一方、「まだ判断がつかない」という町民も約25%に上った。

 個別訪問や電話相談で触れる声も、そうだった。同世代の会社員男性は新たな仕事を見つけたものの転勤が多く、「いずれ福島に戻りたい」との思いを抱えていた。子育て中の母親は「甲状腺がんの検査は、いつまで受けられるのか」と不安を口にした。

 電話口で訪問を断られることも少なくない。「子どもが怖がる。震災のことは思い出させたくない」と拒絶されたこともある。

 「断る人のほどんどが『忙しい』という理由を口にするが、電話の奥にある本当の気持ちはどこにあるのか。本音を聞くのは難しいと感じている」

 不安や焦り、迷いや葛藤。4年間、自らもずっと揺れ動いてきたからこそ、小さな心の動きに敏感でありたいと思ってきた。

 「結局、本音は分からない。環境や家族構成、避難先での暮らしぶりなど、置かれた状況はそれぞれ異なる。その人にとって何がベストなのか。生きる道を一緒に探していきたい」

■自身の変化

 道を見つけようと願ってきたのは自身がそうだった。復興支援員となって半年、変化を感じている。

 「以前は『人のために動く』ということなんてなかった。自分のために生きていた。人に会って、話をして『来てくれてありがとう』と言われて、こういう仕事はいいなと思うようになった」

 地域のイベントや避難者同士の交流会に参加するようになった。「同じ場所に避難している町民同士でも『交流会のような機会がなければ話さなかった』という声を聞く。町民同士をつなげるのも、支援員としての大切な仕事だと思っている」

 町に戻れなくても、せめて福島県内に戻るか、あるいは別の土地で生きていくかはまだ決めていない。だが、たとえ故郷を離れてもつながりは消えないと考えるようにもなった。

 「復興支援員は『かすがい』。町民と町民、浪江町と避難先の自治体など、それぞれをつなぐ役割を担っている」

 各地に散らばった避難町民のつながりが避難先で生まれ、断絶されたコミュニティーが少しずつ、違った形で生まれているような気がする。

 「人の気持ちと同じで、そんなに簡単に町が再生するとは思っていない。でも少しずつ、動き始めている」

 人と人が手を結んでゆけば、迷い揺れ動いても、歩んでいける。

【神奈川新聞】


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