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凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<17>終戦から3年で「帰還」

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

 ナホトカは沿海地方の港町で、弓なりの湾が天然の良港をなす。流氷の影響を受けることが少なく、近代以降に貿易港として栄え、日本との交流も深い。

 1946年から捕虜としてシベリアに抑留された関谷義一(87)=長野県長和町=は48年夏、そのナホトカから帰国の船に乗った。港には、収容所長のトーカレフ大佐が見送りに来ていた。「モスクワから呼び寄せた家族と一緒にね、送ってくれましたよ」

 結局、関谷は帰還までの大半の時間を、大佐の世話係として過ごした。収容所は何カ所か移されたが、役目は変わることなく、まるで所長が一捕虜に付いて回るかのようだった。

 決して、関谷はソ連兵に取り入ったのではない。一人分でさえ過重なノルマの労役を、年老いた仲間の分まで負って凍土を穿ち続け、恐らくはソ連兵になにがしかの感銘を与えたのだ。関谷の人物を信頼したトーカレフは、虚心坦懐に彼の意見に傾聴し、収容所の日本人たちの不満を解消しようと動いたという。「そこは、トーカレフの偉いところだったですね」

 船は今度こそ、南を目指した。46年、朝鮮半島の興南を出た船は、ソ連兵の「ダモイ」(帰還)の言葉とは裏腹に大陸に沿って北上を続け、関谷たちをシベリアに送ったのだった。

 「もう信用できない。着くまで分からなかったね」。しかし、船は確かに日本海を渡り、京都府北部の舞鶴に着いた。船上から遠目に景色を眺めただけで、関谷には日本だと感ぜられた。「ホッとしましたよ」

 下船すると消毒剤のDDTの白い粉を頭から振りかけられ、風呂に入れられて検疫を受けた。2、3日留め置かれた後、北陸線の汽車に揺られ、国鉄職員当時の勤務地、直江津駅を経由して古里の最寄り、信越線関山駅に降り立った。

 48年8月、復員。終戦から3年が過ぎていた。 =敬称略

「日本海名簿」のうわさ

 シベリア抑留は、最長11年に及んだ。明らかな国際法違反である。その対象者は主に「戦犯」容疑者か有罪確定者で、有罪が確定すると、矯正労働収容所などに送られた。

 1946年5月、戦後日本を統治していた連合国軍総司令部(GHQ)と対日理事会ソ連代表の間で、シベリア抑留者らの引き揚げについての会談がスタート。51年のサンフランシスコ対日講和会議・対日平和条約調印前で、日本にはまだ外交権がなかった。冷戦が始まろうとする時期で、米ソの思惑が絡み合い、会談はなかなか進まない。

 ソ連からの引き揚げ第1陣が日本に到着したのは46年12月8日。ナホトカを出港した大久丸(2555人乗船)と恵山丸(2445人乗船)が京都・舞鶴港に入った。

 収容所での民主化運動をめぐる「アカハタ組」と「日の丸組」の対立は続いていた。うわさが流れた。ナホトカで記載された名簿の人数より、舞鶴に降りた人数の方が少ない。船内でつるし上げがあり、何人かが海に投げ込まれたのではないか…。人呼んで「日本海名簿」の怪。が、それを裏付ける資料はない。

【神奈川新聞】


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