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凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<16>敵軍大佐との「終戦」

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

 トーカレフと名乗る大佐が、その地区を仕切る収容所長だった。彼は、捕虜の関谷義一(87)=長野県長和町=を官舎に呼び出して命じた。「明日から朝起きたらここへ来て、ペチカに火をたいてくれ。それだけをやればいい」

 日課はそれだけ。官舎に寝泊まりできる日さえあった。トーカレフと同じ物が与えられた食事は、久方ぶりに味わえ、腹を満たせるものだった。「天地がひっくり返っちゃった」

 柱を立てるため、いてついた土を人の手で穿(うが)つ。自分のノルマを果たすだけで精いっぱいなのに、隣で進退窮まっていた老学者の分まで手伝った。その関谷の行動がソ連兵の心を動かしたのかどうか、それは定かでない。「分からない。言葉が通じないから」。しかし、それをきっかけに関谷の境遇が大きく変わったことだけは確かだった。

 事情を知らないほかの捕虜は、突然の厚遇をねたみもしただろう。「でも、自分でどうすることもできない。何かあれば撃たれて殺されるのは同じです」。トーカレフの散髪係だった仲間を通じて、関谷はそっと食べ物を差し入れた。

 親子、あるいは孫ほども年が離れた関谷に、トーカレフは優しかった。家族をモスクワに残し単身で赴任していた大佐は、身の回りの世話係や、それ以上に、家族のような存在を求めていたのかもしれない。

 当初はうまく意思疎通できず、銃を突き付けられたこともあったが、関谷の実直さがやがて信頼につながった。そして、日本人捕虜たちが何を欲しているのかを聴き、伝える重要な役目も担うようになった。

 「絶対に私を信じましたね。ご縁というのは不思議だね、収容所長と戦争捕虜が一つ屋根の下で生活しておったんですから」。敵味方の交情は、ひとつの「終戦」かもしれなかった。

 幼いころ、故郷の村で教わったお坊さんの説経を、関谷はかみしめた。「自分を戒めて良い行いをすれば、いいことがある」

 =敬称略

◇枕木1本に死者1人

 捕虜には、どんな仕事が強制されたのか。

 疲労しきった体を引きずるようにして収容所に着いた捕虜は検疫期間も与えられず、すぐ労働に駆り出された。

 画家の山下静夫によると、肉体的状態によって1・2級=重労働、3級=軽作業、そして労働に適さない者=休養に分けられた。判定は医師が捕虜の尻の肉をつまんで栄養状態を判断するというお粗末な方法だったが、山下は後に振り返ると意外に適切だったと「画文集 シベリア抑留1450日」に書いている。

 労働は死体埋葬用の穴掘り、市民用の木造アパート建設から水道管埋設、道路・鉄道の建設、鉱山での採掘、採石など多岐にわたった。1日8時間労働が建前だが、あくまでノルマ達成が最優先。8時間を超す労働は珍しくなかった。

 とりわけ、森林での大木伐採や鉄道線路の敷設作業は過酷だったという。その重労働が、時に氷点下30度を超す寒さのなかで行われる。肉体は栄養失調で弱っている。事故も多発する。第2シベリア鉄道と呼ばれるバム鉄道の建設は「枕木1本に死者1人」という悲惨な状況だった。


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