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凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<15>ノルマ超える「原点」

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

 ノルマを達成できなければ、罰として食事を減らされる。達成すれば余力があると見なされ、より一層、重い労働が課される。それが、シベリアの収容所での常識だった。

 だから、ソ連の将校は解せなかったのだろう。自分のノルマを終えてなお、隣の捕虜の分まで手伝っていた関谷義一(87)=長野県長和町=の心境を。

 「隣にいたのは五十嵐さんという人でした。多分、60歳を過ぎていたでしょう。この人は力がないから手伝ったのだ、と私はソ連軍の通訳に伝えました」

 五十嵐と名乗った男性は、敗戦まで日本が統治した朝鮮半島で農政に関わった農学者らしかった。抑留者のほとんどは軍人だったが、中には民間人もいた。「年を取っていたし、まして学者ですから、重労働なんてできっこないですね」

 関谷の心には、遠い故郷の雪景色が浮かんでいた。冬は丈余の雪に閉ざされる新潟県の山あいの村。お寺の高僧が毎年のようにやって来て一軒一軒を回り、お経を上げ、お説教した。関谷は幼いころ、それを聞くのが好きだった。

 「とにかく人間は助け合って生きなければならないんだと。昔の農村ですから、理屈でなく、お互いさんだと。それが原点です」

 その「原点」に従い、彼は両親に旅行させたい一心で鉄道員となり、また、大戦で劣勢に転じた「お国のため」に、少年飛行兵を志願した。今度は、シベリアに身を置いて、隣人の労役を代わったのだった。

 多くの捕虜が、いかに体力を温存するかに心を砕いていた。それほど、シベリアの寒さは体力を奪い、飢えが気力を衰えさせた。その中にあってなお、関谷の体は自然と動いた。「それだけ若かったんですよ。何をおいても、やってやらなきゃいかん、と…」

 老学者を助けた翌日、関谷はソ連の将校に呼び出された。連れて行かれたのは、地区の収容所を統括する大佐の官舎だった。

 =敬称略

◇飢えて便まで食べた

 捕虜を苦しめた飢餓。原因になった食糧事情は、どんなものだったか。

 関谷は「でんぷんのような粉を水に溶き、乾燥させた芋などを混ぜて食べた。パンが出たのは、相当後になってから」と話す。

 シベリア抑留研究会代表世話人・富田武の著書「シベリア抑留者たちの戦後」によると「ソ連の食糧事情は大戦による破壊、1946-47年冬の欧州部を中心とする飢饉(ききん)のために非常に悪く」、捕虜への給食は「(日本軍の)将兵が携行した食糧と戦利品として満州から搬入した食糧に頼らざるを得なかった」。

 「日本軍捕虜に対する食糧給付基準」は1人1日当たりパン300グラム、米300グラム、肉50グラム、野菜600グラムなどと定めていたが、あくまで基準。実際には、鉄道建設に従事したある収容所では、45年末の10日間に56人の捕虜が主として栄養失調で死亡した。

 あまりの空腹に、自分の便を食べたという話もある。コーリャンは消化が悪く、便の中にそのまま出てくる。コーリャンだけ取り出して川で洗い、空き缶に入れて炊く-。

 そこまで追い込まれた捕虜に、重労働と厳しいノルマが課せられた。

【神奈川新聞】


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