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凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<14>貧しさと共感の氷原

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

 戦勝国のソ連も貧しかった。第2次大戦で最大の2千万人もの死者を出し、経済は疲弊していた。シベリアは飢えていた。

 1946年初めからシベリアに抑留された関谷義一(87)=長野県長和町=は、マローシャというおばあさんの優しさを覚えている。毎日の労働への行き帰り、こっそりパンや何かの食べ物を差し入れてくれたのだ。銃を持った歩哨が前後を固めているのにも構わず。「日本人がかわいそうだと言ってね。神様みたいでした」。互いの貧しさが共感を呼び起こしたのだろう。

 収容所の食糧事情は後に改善されたが、最初の冬はひどかった。でんぷんのような粉を水に溶き、乾燥した芋やタマネギのかけらを混ぜたものが「食事」だった、と関谷は言う。「パンが出るようになったのは相当後になってからですよ。ビタミンが何もないでしょう。それで、みんな松葉をかじっていました」

 関谷が転々とさせられた5カ所ほどの収容所のうち、最初に連れて行かれたのは、ただの平原。捕虜自ら、自分たちが収容される建物を建てることから始めねばならなかった。

 「大きな丸太を組み合わせ、松の木に生えたこけを隙間に詰め込んで風よけにするんです」。歩哨の監視塔を敷地の四隅に建て、くいを打って鉄条網を張るのも捕虜の仕事だった。

 その最初の収容所で、あるとき、柱を立てるための直径40センチほどの穴を三つ掘るノルマを課せられたことがある。「鉄の棒を土に打ち込むんだけれど、駄目なんです。氷にはじかれて全然はかどらない」。いてついた地面を機械も使わず掘るのは一日仕事だった。

 関谷の隣には、一つも穴を穿(うが)つことのできないまま難渋している年老いた男性がいた。関谷は自分のノルマを終えると、その男性の分を手伝った。すると、ソ連の将校がやって来て不審げに訪ねるのだった。「これは誰が掘ったんだ」と。

 =敬称略

◇「暁に祈る」事件も

 極寒、飢え、重労働の日々に修羅を見た関谷が、最も許せないのは裏切りだった。自分だけが少しでもいい思いをするためにソ連側にすり寄って、仲間を売る。その極端な例に「暁に祈る」事件があった。

 事件はモンゴル・ウランバートル収容所で起きた。そこでも、労働には厳しいノルマが課せられた。ノルマの達成率によって、食事の量に差が出る。黒パン一切れの大きさの違いが、生死を分ける。生き残るために、誰もが必死だった。

 いつしか、現場を仕切る作業部隊長の力が大きくなった。その一人に吉村久佳がいた。本名、池田重善。元憲兵の経歴を隠し、偽名を使った。吉村は隊員に恣意(しい)的なノルマを課して、ソ連兵の歓心を買う。

 ノルマを達成できない隊員に、厳しい罰を与えた。極寒の屋外に終夜放置し、数人を死亡させたという。縛られ、うなだれて凍死した犠牲者の姿は、暁に祈っているようだった-。

 戦後の1949年、元隊員の告発で池田は逮捕された。裁判は最高裁まで進み、58年に懲役3年の刑が確定。池田は出所後も無罪を主張、再審請求したが、棄却された。

【神奈川新聞】


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