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凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<10>「価値ある死」求めて

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

朝鮮半島に赴く直前、関谷義一が後輩から贈られた寄せ書き(複写)
朝鮮半島に赴く直前、関谷義一が後輩から贈られた寄せ書き(複写)

 「詰め込み主義ですよ。半分の時間で一人前にするわけですから」

 陸軍少年飛行兵の通信兵として養成された関谷義一(87)=長野県長和町=は、訓練の実態を明かす。戦局の悪化に伴い、従来3年ほどかかった教育期間は半分に。その上、優秀な者から順次、繰り上げ卒業となり、戦地へ送られていった。「即戦力」を促成しては“消費”していくほど、日本は追い詰められていた。

 誰もが自ら志した飛行兵とはいえ、脱落者も少なくなかった。難解な通信、暗号の技術習得に加え、行軍や兵器操作も含めた日々の訓練は兵士たちの心身を疲労させた。「駄目な者は帰された。優秀でもどんどん抜けていきました」。脱走して営倉(懲罰房)送りになる者もいた。

 関谷は耐えた。「故郷のみんなに送られて出てきたのだから、お国のために一命をささげるのだ、という意識がありました」。1944年春、関谷は通信兵として朝鮮半島に赴いた。

 「楊貴妃モ顔負ケスルガ如キ紅顔ノ美少年」「ハナレ行ク人ナヲツラシトゾ」

 関谷が指導役として起居をともにした2期下の後輩たちから、朝鮮に渡る時に贈られた寄せ書きだ。後輩とはいえ、16歳で入隊した関谷よりも多くが2、3歳は年長だった。いずれにせよ互いに10代。惜別の情がつづられた一節を読み返し、関谷は「弱々しい人間的な面が表れていますね」と当時の心境を振り返る。

 「決戦ノ勝負ハ電波ニ在リ」という通信兵らしい言葉もある。ツー、トンというモールス信号の機械的な通信音にさえ、打つ人なりの癖を読み取った。「これは誰それかな、とね」。それほど技術は熟練し、戦友との関係も濃密になっていた。「ひとたび立てばもう会えない。会うのは靖国で、という思いでしたね」

 誰もがいつかは死ぬ。ならば、いかに「価値ある死」にするか-。軍隊で教えられたのは生き方ではなく、死に方だった。=敬称略

「死は鴻毛よりも軽し」

 明治天皇は1882年、「陸海軍軍人に賜(たま)はりたる勅諭」、いわゆる軍人勅諭を下賜した。この勅諭は、太平洋戦争に至るまで軍人精神の要諦とされた。

 核心は5カ条の訓戒。「一(ひとつ)、軍人は忠節を尽すを本分とすへし」に始まり、礼儀、武勇、信義、質素を説いた。「忠節」の中に「義は山獄よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」とある。命は鳥の羽より軽かった。

 これに東条英機陸相が1941年に示達した「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を並べると、兵の命がいかに扱われたかが分かる。

 古兵が新兵をいじめるときの、常とう句があったという。「おまえらの代わりは1銭5厘でいくらでも来る」。1銭5厘とは赤紙(召集令状)のことだ。要は消耗品。生還の可能性ゼロの特攻作戦も、玉砕戦法も、その線上にあったのではないか。

 軍歌や軍国歌謡にも“死”があふれていた。「みごと散りましょ国のため」(同期の桜)、「生命惜しまぬ予科練の」(若鷲の歌)、「夢に出てきた父上に死んで還れと励まされ」(露営の歌)…。兵にこれほど死を強要した軍隊、国家があるだろうか。

【神奈川新聞】


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