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凍土を穿つ シベリア抑留の記憶<18>
雪焼けの復員兵の顔

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神奈川新聞  2005年11月27日公開  

「真っ黒で、目はぎょろぎょろしているからね。みんな困ったらしいです、えらいのが帰って来たと」

 終戦から3年を経て、シベリアから帰還した関谷義一(87)=長野県長和町=は、故郷の人々の驚いたような、戸惑ったような表情を今も覚えている。痩せてはいなかったが、雪焼けが肌に染み込んで、黒々としていた。

 もちろん、両親は「良かった」と涙を流した。シベリアから無事を伝える手段も、そもそも関谷がシベリアに抑留されたことを知らせるすべもなく、両親は息子の生死さえ確かめられなかった。「私自身も、まさか田舎へ帰れるとは思っていなかったからね。少年飛行兵を志願して、シベリアへ行って…」

 5年ぶりに関谷がその土を踏んだ古里、新潟県豊(とよ)葦(あし)村(現・妙高市)は、「変わっておったねえ」。

 見慣れた山の形、小道の曲がり具合に懐かしさがあったが、都会を空襲で焼け出された人たちが親類を頼って集まり、人口が5倍にも10倍にも増えたように見えた。農村ゆえ、食べ物には困らなかった。「毎日がお祭りか宴会か、というような騒ぎでした。活気づいておりましたね」

 戸惑うほどの別天地。関谷はそう振り返る。けれども彼は、2カ月ほど滞在しただけで、その平和な郷里を出て上京した。

 =敬称略

「シベリア帰り」隠した

 夢に見た祖国の土を踏んだ元兵士たち。しかし、誰もがすぐに平穏な生活を手にしたわけではない。

 猪熊得郎(86)は2年3カ月の抑留生活を終えて1947年12月、京都・舞鶴港に還(かえ)った。

 収容所でのソ連側の共産主義教育によって“赤化”した帰還者の一群がいた。彼らは時に労働歌を歌い、下船を拒否して世間を驚かせた。冷戦が表面化し、国内でも“赤い帰還者”への警戒心が強まった。

 生きるために、働かなければならない。が、就職に際して「シベリア帰り」は一様に敬遠された。猪熊は履歴書に抑留体験を隠さざるを得なかった。シベリアで言語に絶する経験をし、かろうじて生還すれば周囲の白い目。「好きで捕虜になったわけじゃない」と猪熊は戦争をのろう。

 さまざまな曲折を経て、2010年6月、国会で「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」(シベリア特措法)が成立し、生存者に特別給付金が支給された。金額はとても満足できるものではないが、「金の問題じゃない。政府が私たちの存在を認めた。抑留者だったことを公然と言える時代がやっと来た」と猪熊。「随分、時間がかかりましたねぇ」

 安倍晋三首相がこだわる「戦後レジームからの脱却」。猪熊は「戦後処理は終わっていない」と反論する。「シベリア抑留者の正確な人数すら分かっていないんです。移送の途中で脱走してソ連兵に射殺された人もかなりいます」

 厚生労働省によると、シベリア抑留者は約57万5千人。「数字でいえば『何十万』という十把ひとからげにされてしまうが、一人一人に名前があり、生きざまがあり、家族がいるんです。政府の責任で一刻も早く実態を調べ、遺骨を収集してほしい」

 猪熊は今、シベリア抑留の語り部を務めている。

【神奈川新聞】


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