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思想家・内田樹さん
時代の正体〈58〉わたしたちの国はいま(2)「民主主義とカネの相性」

時代の正体 神奈川新聞  2015年01月31日 09:26

いま、「わが国は滅びる方へ向かっている」と口にしても、むきになって反論する人はそういません。ビジネスマンだって、もう経済成長がないことは分かっています。

一時だけ投資家たちがあぶく銭を求めて集まるカジノ資本主義的な事態はどこかの国でまだ何度か起こるでしょうけれど、しょせんはバブルです。歴史過程としての資本主義はもう末期段階を迎えている。そのことは口では経済成長を唱えている人だって分かっているはずです。

にもかかわらず、惰性に任せて「右肩上がり」の成長モデルに合わせて社会制度は改変され続けています。

教育、医療、地方自治、どれも経済成長モデルに最適化したかたちへの改変が強力に進められている。資本主義の仕組み自体、賞味期限が切れて終わりかけているのに、事態がさっぱり好転しないのは「いまのシステムが成長に特化したかたちになっていないからだ」「市場原理の導入が足りないからだ」と解釈する人たちが、終わりつつあるシステムに最適化するという自殺的な制度改革を進めている。

教育がそうです。学校教育法の改正で、大学は一気に株式会社化されました。教授会民主主義が事実上廃絶され、権限が学長に集中する仕組みになった。

株式会社のようにトップダウンで組織が運営され、経営の適否は単年度ごとに数値的に開示される。志願者数、偏差値、就職率、科研採択数、論文提出数、英語による授業時数、外国人教員数といった数値で大学が格付けされ、教育資源が傾斜配分される。営利企業と同じロジックです。

しかし、その結果、いま国公立大学全体の空洞化が急速に進行しています。すでに東大からも高名な教授たちが逃げ出している。当然だと思います。予算は削られ、労働負荷は増え、権限は縮小されたあげくに「さらなる改革努力を」と言われても、もう「笛吹けど」足が動きません。四半世紀休みなく続いた制度改革に教員たちはほとほと疲れ切っている。この後、日本の国公立大学の研究教育機関としての質は低下するばかりでしょう。

国内の大学の質の低下が進めば、国内での学歴では「使いものにならない」ということになる。当然、エリートを目指す人々は海外での学歴を求めるようになる。すでに富裕層は中等教育段階から子どもを海外の寄宿制インターナショナルスクールに送り出しています。その経済的負担に耐えられる富裕層にしかキャリアパスが開かれないのです。

医療も同じです。医療は商品であり、患者は消費者だという市場原理を導入したせいで医療崩壊が起きました。

どこでも超富裕層が最後に求めるのはアンチエイジング、不老不死です。そのためには天文学的な金額を投じることを惜しまない。それなら医療者は医療資源を超富裕層の若返りと延命のためだけに集中させた方が、きつくて安い保険医療に従事するより合理的です。経済格差がそのまま受けられる医療の格差に反映してしまう。米国では金持ちは最高級の医療を受けられ、保険医療や無保険者はレベルの低い医療に甘んじなければならなくなっている。

■株式会社精神

米国のように所得上位1%に国民所得の20%が集中するという格差拡大の流れは市場に委ねている限り、日本でも止まることはないでしょう。

そもそも株式会社は民主主義とは無縁のものです。

経営者が判断したことに従業員はあらがうことができない。当然にも、従業員の過半の同意を得なければ経営方針が決まらないというような企業はありません。すぐつぶれてしまう。従業員も経営判断の適否を判断する責任があるとは思っていない。経営判断の適否はすべてマーケットが判断してくれるからです。マーケットはビジネスにとっての最終審級です。だから、経営判断が民主的であろうと非民主的であろうと、そんなことはマーケットの決定には何も関与しません。

株式会社は右肩上がりを前提にしていますが、しかし、江戸時代までの日本では現状維持、定常再生産が社会の基本でした。

近代化を遂げた後も、久しく農村人口の5割を超えていた。農林水産業は自然が本来持つ生産力を維持するものです。自然は右肩上がりに無限にその生産力を上げるということがありません。何よりも生産力の持続可能性が重要だった。100年後の孫の世代のために木を植えるといった植物的な時間の流れに沿って、社会制度も設計されていた。そのような風儀は1950年代まで残っていました。

しかし60、70年代の高度成長期に農村人口が都市に移動し、サラリーマンが支配的な労働形態になりました。今の日本では株式会社のサラリーマンが標準的な人間ですから、「株式会社従業員マインド」で国家の問題も眺めるようになった。それはつまり植物的なゆったりとした時間の流れの中にはいないということです。四半期ごとの売り上げや収益に一喜一憂し、右肩上がり以外の生き方はありえないという思い込みが国民的に共有されている。

だから、もう成長はないという事実を突きつけられても、それを信じることができない。別のプランが立てられない。とりあえず昨日まで続けてきたことをさらに強化したかたちで明日も続ける。原発を再稼働し、リニア新幹線を造り、カジノを造りといったことをまた繰り返そうとしています。

もちろんそんなことをしても成長はない。それは学校が悪い、自治体が悪い、ついには民主主義が悪いというふうに責任転嫁される。それが現状です。

■歴史的転換点

振り返れば、関西電力大飯原発の再稼働は歴史的な瞬間でした。あのとき経済の論理に国民国家が屈服した。国土の保全と国民の健康かグローバル企業の収益増大かという二者択一で後者を選んだのです。

再稼働を要求した財界の言い分はこうでした。原発を止めたせいで電力価格が上がり、製造コストが上がり、国際競争力が落ちた。再稼働を認めないのなら生産拠点を海外に移す。そうなれば国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、法人税収も減る。それでいいのか、と。この脅しに野田佳彦政権は屈した。

しかし、グローバル企業はもはや厳密には日本の企業とはいえません。株主の多くは海外の機関投資家、CEO(最高経営責任者)も従業員も外国人、生産拠点も海外という企業がどうして「日本の企業」を名乗って、国民国家からの支援を要求できるのか。

もう一度原発事故が起きたら、どうなるでしょう。彼らは自分たちの要請で再稼働させたのだから、除染のコストは負担しますと言うでしょうか。雇用確保と地域振興のため、日本に踏みとどまると言うでしょうか。そんなことは絶対ありえない。あっという間に日本を見捨てて海外へ移転してしまうでしょう。

利益だけは取るけれど、責任は取らない。コストはできる限り外部化するというのが「有限責任」体である株式会社のロジックです。

民主主義とグローバル資本主義は相性が悪い。民主主義と金もうけは残念ながら両立しません。そして昨年の総選挙の争点は、実は「民主主義とカネのどちらがいい?」という問いだったのです。その問いに日本の有権者がどう答えたのかはご存じの通りです。

【神奈川新聞】


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