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教訓を今に 阪神大震災20年(5)究める

社会 神奈川新聞  2015年01月21日 11:03

関東大震災の石碑に向き合い碑文を読み込む武村さん=昨年12月、鎌倉市内
関東大震災の石碑に向き合い碑文を読み込む武村さん=昨年12月、鎌倉市内

〈爆撃を受けたような家の残骸、バタバタと落ちた新幹線の高架橋、中津浜線に出た私は、写真を撮ることも、メモを書くことも忘れて、ただ呆然(ぼうぜん)と立ち尽くした。ふと我にかえると、涙が頬を流れ落ちているのに気づいた〉

調査日誌に思わずそう書き留めた。張り付くようなのどの渇きを覚えながら、必死に自転車のペダルをこいだ。その場に居られなくなり、逃げ出したくなったからだ。自分がどこにいるのかさえ、分からなくなっていた。

阪神大震災の2日後、1995年1月19日に被災地入りした地震学者、武村雅之(62)。激震に見舞われた兵庫県西宮市で立ちすくんだ。建物や構造物、そして街全体が壊滅的な被害をさらし、震度7と判定された帯状の地域「震災の帯」の一角だった。

目の前に広がった凄惨(せいさん)な光景をいまも鮮明に覚えている。「頭が真っ白になり、冷や汗も出てきた。いまだに家がこんなにつぶれるんだって、とにかくショックだった」

打ちのめされた経験が転機になった。学生のころから追究していたのは、震源の解明。それは地震の本質に迫る研究であり、学問的には重要だが、震災の現実を見せつけられ、「防災の役には立たない」と痛感させられた。そして気付く。「地震学者は過去の震災を知らない」

だからそれを徹底的に調べ、何が起きたかを知る。地下でどんな現象があったかではなく、人々が暮らす地表にこそ目を向け、どのような被害や影響が生じたかを理解する。進むべき新たな道を定め、解き明かそうと試みたのは、阪神の一つ前の大震災。1923年9月1日の関東大震災だった。

■過去

死者・不明者は東京や横浜を中心に10万5千人を超え、6400人余りだった阪神とは桁違いの被害。晩夏の昼前に起きた関東では家屋ひしめく一帯に大火が襲いかかり、逃げ場を失った人々が犠牲になった。一方、真冬の未明だった阪神では寝ていた人たちの多くがその場で息絶えた。

被害の様相や規模が異なっていたとはいえ、引き金となった足元からの激しい揺れに家々が耐えられなかったことが、関東に通じる阪神の教訓だった。

武村は歴史を見つめる。「関東大震災の翌24年、市街地建築物法に耐震規定が初めて設けられた」。曲折を経て基準の強化が図られ、現行基準でもある81年以降の建物は、多くが阪神の震度7にも耐えた。被害が集中したのは、81年よりも前の木造住宅や終戦間もなくの長屋だった。

街並みが整い、災禍の跡が見えにくくなった20年の節目に思う。「それでも被災地はまだ復興していないとよく言うけれど、ある意味で当然だ。90年以上前の関東大震災だって、復興は続いている」

ライフワークとなった関東大震災の石碑調査。最近鎌倉で行い、新たな現実を知る。「まだ仮本堂のままとか、最近になって復興したという寺がある。これをまだ復興していないとみるべきではない。復興の努力を続けていると捉えるべきだ」と武村。なぜなら「そうした努力の積み重ねの上に今の僕らの生活がある。そう受け止めてこそ、被害の大きさに思いをはせ、将来を考えることができる」からだ。

■批判

過去に目を凝らし、明日につながる教訓を紡ぐ武村に対し、いままさに起きている現象から明日かもしれない巨大地震を読むという困難な作業の一端を静岡大客員教授の吉田明夫(70)は担っている。

「究極の防災」として、かねて実現が期待されてきた地震予知。想定される東海地震が切迫しているかどうかを地下の異常現象から見極める気象庁判定会の委員を務めている。

同庁研究所の幹部職員だった1995年1月17日。武村同様、時間を追うごとに拡大していく被害の状況に大きな衝撃を受けた。

「被災地の人は『関西に大地震が来ると思っていなかった』と言うが、近畿には活断層が多いことも、南海トラフで次の巨大地震が発生する前には内陸で大地震が起きる可能性があることも、研究者の間では知られていた。それが社会で共有されていなかった」

翌96年春、予知業務の事務方である同庁の地震予知情報課長に就いた。大都市を襲う直下地震の危険をあらかじめ指摘できなかったことへの厳しい風当たりを肌で感じ、地震予知に対する世論の批判も浴びた。

その反省を踏まえ、国は地震観測の強化へかじを切る。それまでは数少ない震度計のデータとともに気象庁職員が体感や現地の被害調査によって決めていた震度は、全国各地に整備された世界有数の観測網で瞬時に捉え、テレビやウェブサイトで地震の数分後に速報される態勢が整った。

■石碑

高密度な観測網によって蓄積される地震のデータなどから、地下構造の詳細や地震波の伝わり方がつかめるようになってきた。特定の地域で地震活動が低調になる「地震の静穏化」、断続的に地下深くで発生する微弱な「深部低周波微動」。この20年間で地震学の進歩につながる発見があり、だから予知も不可能ではないとの期待がわずかに膨らみ始めたころ、再び厳しい現実が突き付けられた。

2011年3月11日、東日本大震災。関東、阪神に次ぐ三つ目の大震災をもたらしたのは、地震学の常識を打ち破るマグニチュード(M)9・0という超巨大地震だった。それすら事前に読めなかったのだから、予知は不可能との論がいままた広がっている。

「予知の3要素である、地震の発生時間と場所、大きさを狭く限定した予知は確かに不可能だろう。しかし、ややあいまいな内容であっても、防災上役に立つ情報を出すことはできるかもしれない。問題は、空振りのリスクもあるそうした情報を社会がどう受け止めるか、発表する合意が取れるかだ」。吉田もまた、科学の世界ばかりにとどまっていてはならぬと考え、社会との関わりを探り続けている。

武村は「人の生き方、考え方」に思いを巡らせるようになった。阪神や東日本の現状と比較し、問い掛ける。「なぜ、関東大震災の復興を刻んだ石碑があちこちに残っているのか」

それは復興プロセスの違いだと武村はみる。「国や自治体任せにせず、住民自らが、あるいは地域が一丸となって復興を進めたにほかならない。苦労はしたが、自分たちの力でここまで復興したと記録するため、石碑を建てた。いまの都会に果たしてそれができるか。私たちは本当に考えなければいけない」 =敬称略

【神奈川新聞】


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