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失われる歴史的建造物〈下〉ハマの来歴振り返って

社会 神奈川新聞  2014年12月01日 11:00

1986年当時の旧日本火災横浜ビル(左)と現在の日本興亜馬車道ビル(右)。当時ファサード保存は画期的だった
1986年当時の旧日本火災横浜ビル(左)と現在の日本興亜馬車道ビル(右)。当時ファサード保存は画期的だった

「横浜は歴史的建造物を積極的に残してきたという印象があったけれど、もしかしたら『偶然残っていただけ』かもしれない」。旧三井物産横浜支店倉庫(旧日東倉庫、横浜市中区日本大通)の保存を求め、関内地区をめぐった「まち歩き」イベント(9~11月、計5回開催)で、参加者の一人がつぶやいた。

同倉庫も隣接する同支店ビルも、所有者の同意が得られず、文化財指定などの対象から外れていた。実は、そういう“無防備”な歴史的建造物は横浜市中区だけで五指に余るほどある。

●限界 建築物保存の枠組みとして、市には「指定文化財」と「認定歴史的建造物」の二つがある。丸ごと残すことが要件の文化財に対し、「認定」は建物の一部だけを残した場合も対象になるなど、柔軟性が高い。

認定の最初の例は、中区の県立博物館(旧横浜正金銀行本店)の隣にある日本興亜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)。1989年、解体された部材を用い、正面や側面に旧ビルの意匠を復元した。ファサード(建物の正面)保存の先駆けとして知られる。

だが、それは決して理想的な解決法ではない。時を重ねた建物内部の空間が失われるからだ。「当時は画期的だったが、現在、特に海外では保存とみなされないかもしれない」と、鈴木伸治・横浜市大教授(都市計画)は、ことし10月下旬のシンポジウムで語った。

都市開発が盛んだったバブル期の“緊急避難”としてファサード保存を編み出したことは評価しつつも、四半世紀を経て、より「豊か」な保存手法が海外で一般的になっているためだ。台湾では古い建物全体を残し、内部をカフェなどに改装して再利用した例が街中に数多くあるという。

それに、市の「認定」はそのままの姿を約束してはくれない。松坂屋(中区)や日本ビクター第一工場(神奈川区)など、開発を見越して所有者から「認定解除」を申し入れられ、解体された事例もある。

一方、解体後に新しい材料で復元されたストロングビル(中区)も「認定」、帝蚕倉庫も、解体が決まった後に「認定」。前者は創建時の図面に忠実に復元したから、後者は解体後の建材を新たなビルの外壁に“貼り付ける”計画があるから-と理由付けされているものの、「保存」「歴史」の意味は曖昧だ。

●歴史 歴史的建造物の保存は、市政の「歴史」でもあった。旧物産ビル、倉庫がある日本大通りは、日本で初めての都市計画に基づいた近代的な街路として知られる。戦後歴代の市長は、歴史的建造物が連なる街並みを守ることで「ミナト横浜」の魅力を高めてきた。

63年に就任した飛鳥田一雄市長は「6大事業」の一つとして、関内などの都市デザインの骨格を作り上げ、後にまで継続された。高度経済成長に伴う乱開発を、行政指導で総合的にコントロール。併せて市長の諮問機関である都市美対策審議会をはじめ、都市計画の諸制度を整えた。

高度成長の終わりからバブル経済へ移行する過程では、東京一極集中と一線を画し、横浜を個性的な都市へと発展させるような施策がとられた。それが地域資源を顧みた「歴史を生かしたまちづくり要綱」だった。みなとみらい21(MM21)地区の開発の一方で、古くからの関内の雰囲気を保とうとした。日本興亜馬車道ビルのファサード保存は、まさにその流れの中で実現した。建造物保存のため、市の土地開発公社を積極的に活用して取得した事例もある。

実際、日本大通り周辺では80年代以降、旧物産ビル・倉庫の改築計画を押しとどめさせたほか、旧横浜商工奨励館と旧横浜市外電話局を市が取得、改修増築し、横浜情報文化センターなどとして再生した。国による増築計画があった横浜地裁や横浜税関の庁舎の保存にもこぎ着けた。

2000年代初めには、建物を単に保存するだけでなく、文化芸術活動の拠点として活用する試みもみられた。旧関東財務局横浜財務事務所を利用した「ザイム」や、旧第一銀行と旧富士銀行を使った「バンカート1929」などがそうだ。こうした市の施策は、08年のリーマン・ショックのころまでは大々的に展開されていた。

では、今はどうか。

市の局長経験者の一人は「市役所移転計画は熱を帯びているが、横浜のルーツともいえる関内のまちづくりは、蚊帳の外に置かれているのではないか」と寂しげに語る。「文化芸術創造都市」を掲げる市にとって、自らの来歴を振り返るべき時期に来ている。

◆旧三井物産横浜支店倉庫 1910(明治43)年に完成。翌11年に誕生した三井物産横浜支店ビルとともに生糸輸出の拠点だった。横浜赤レンガ倉庫(11~13年)よりも古い。23年の関東大震災の際は倉庫の中の生糸が被災を免れ、復興を支えた。鉄筋コンクリート、れんが、木を組み合わせた混構造は国内にほとんど現存例がない。世界遺産になった群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」を引き合いに「世界遺産となり得る素質がある」と評価する専門家もいる。隣接する旧三井物産横浜支店ビルは国内初の全鉄筋コンクリート造でこちらも貴重な存在。

【神奈川新聞】


解体前のストロングビル(左)(2007年)。図面に基づきビルの低層部に復元された(下)
解体前のストロングビル(左)(2007年)。図面に基づきビルの低層部に復元された(下)

旧県産業組合館(左)(2012年)。壁面が残されJAグループ神奈川ビルの一部に(右)
旧県産業組合館(左)(2012年)。壁面が残されJAグループ神奈川ビルの一部に(右)

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