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【ビキニ被ばく60年】第3部:伝え継ぐ(2) 事実知り「もう許せん」

社会 神奈川新聞  2014年11月27日 12:17

第十三光栄丸の甲板員だった松下さん(左)の話を聞く山下さん =高知県土佐清水市
第十三光栄丸の甲板員だった松下さん(左)の話を聞く山下さん =高知県土佐清水市

「光ったとか灰が降ってきたというのはあるけれど、いちいち気にせんけね。(漁は)生きたもん殺すんやけ、そんな暇ない。魚捕る競争やったけ」。10月末、高知県土佐清水市の下川口地区。60年前、三崎港を拠点とするマグロ漁船「第十三光栄丸」の甲板員だった漁師松下長次(80)が振り返る。

第十三光栄丸は1954年に米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験の影響で、マグロを全量廃棄した。乗組員は国立療養所久里浜病院(横須賀市)で精密検査を受けていた。

「血液と髪をびっちり取られた。第五福竜丸と同じように一生(面倒)見てくれると思ってたから辛抱したけど。補償はないない。そんな検査やったら受けんでもよかった」。松下の横で、元高校教師で太平洋核被災支援センター事務局長の山下正寿(69)=同県宿毛市=が質問を挟む。検査結果の記憶について、30代で歯が抜け始めたことについて-。

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山下は85年、高知県内を中心にビキニ事件の調査に乗り出した。原点は宿毛市内の小さな漁村「内外ノ浦」。ここに、マグロ漁船員だったある青年の母が暮らしていた。

山下は地域の現代史を調べる高校生サークルを指導していた当時、長崎とビキニ周辺の核実験で二重被ばくした藤井節弥の存在に突き当たる。山下らを迎えた母は語りだした。息子は真面目で、本が好きだったこと。ずっと仕送りをしてくれたこと。放射能の影響を不安がっていたこと。そして60年夏、横須賀の海で自殺したこと。27歳だった。

宿毛湾の港町で育った山下の幼い日の記憶が呼び覚まされた。実家の菓子店で店番をしていた山下のお得意さんだった湾の孤島、沖の島のマグロ漁船員たち。からっと明るく、子どもに好かれていた。彼らがある時を境に体調を崩し、声を失い、髪が真っ白になっていく…。

調査を進めると、多くの船員が若くしてがんで亡くなったり、体の異常に苦しんだりしていた。

ビキニ事件の被災船は少なくとも延べ992隻。にもかかわらず「ビキニ事件」は「第五福竜丸事件」となり、たった1隻の被害に矮小(わいしょう)化されていたのだ。「事実を知ったらもう絶対に許せんと。誰かがやらんといけんという意識がずっとあった」

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だが、事件はすでに強引に幕引きされていた。放射能検査は54年末で打ち切られ、日米両政府は翌年1月、米側が200万ドル(当時約7億2千万円)を支払うことで政治決着。山下は高知県や市議会を通じて国に船員の検査記録の公開や真相解明を求めるも「解決済み」になっていた。

立証の道は困難だった。船は絶えず動き、放射能は目に見えない。山下は「放射能の被害は、因果関係を消しておけば誰も裁くことができない。情報も隠されてきたので関係者自身が被害者としての認識がない。国による完全犯罪のようなもの」と話す。

29年間。わずかな手がかりを一つずつ積み上げる道のりだった。船員への聞き取りに加え、専門家と連携し、米国公文書などを通じて被災船の航路と放射性降下物が降り注いだ範囲などを突き合わせる。第五福竜丸以外の船員の血液や歯を検査し、通常より高い推定被ばく線量を導き出す。

事件から60年の節目となる今年、調査は大きく動き始めた。厚生労働省は9月、船員の検査記録などを開示。これまで存在しないとされてきた文書だった。

=敬称略

【神奈川新聞】


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