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  3. 「経済振興」か「横浜らしさ」か “世界遺産級”倉庫の解体着工
解体に着手した旧三井物産横浜支店倉庫。外壁は白い「化粧れんが」で明治期に一般的だった赤れんがよりも高価だった=横浜市中区
解体に着手した旧三井物産横浜支店倉庫。外壁は白い「化粧れんが」で明治期に一般的だった赤れんがよりも高価だった=横浜市中区

明治末期に建てられ、輸出用生糸を収めた旧三井物産横浜支店倉庫(旧日東倉庫、横浜市中区日本大通)の解体が5日、着工した。「横浜赤レンガ倉庫より古い横浜最古の倉庫。重要文化財級、いや世界遺産級の価値がある」-。多くの専門家が折り紙を付け、市民も愛着を寄せる歴史的な建物は、なぜ今、失われようとしているのか。

◇横浜の魂宿す 「世界遺産となり得る素質がある」。文化庁OBで横浜開港資料館にも勤めた建築史家の堀勇良さんは解体が決まっても力説する。6月に世界遺産登録された群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」との関連性からだ。北関東や信州などで生産された絹は横浜港に集約され、海外へ渡り外貨を稼いだ。旧物産倉庫はその拠点の一つだった。

1923(大正12)年の関東大震災の際も倒壊や火災を免れ、無事だった生糸はわずか半月後に米国へ輸出。堀さんによると、そのことは翌24年、神奈川新聞社の前身に当たる横浜貿易新報社が刊行した「新興の横浜」に「三井物産の第一回積出があったと云(い)ふ報道」が「紐育(ニューヨーク)の生糸街を潤した」と記された。「倉庫が貿易復興の先導的な役割を果たした」(堀さん)

「技術史の面でも計り知れない価値があるのに…」と吉田鋼市・横浜国立大名誉教授(建築史)は肩を落とす。

同倉庫は10(明治43)年に誕生。れんがの外壁、木造の床、鉄筋コンクリートの屋根が巧みに組み合わされた混構造で、現存例は国内にはほとんどない。隣には翌11年に完成した日本初の全鉄筋コンクリート造のビルである、旧三井物産横浜支店ビルも残る。設計はいずれも横浜にゆかりの深い建築家、遠藤於菟(おと)(1866~1943年)。れんがからコンクリートに至る建築史が並び立つ。吉田名誉教授は「倉庫とビルがそろってこそ意味がある」と強調する。

地域の「物語」を宿し歴史的にも第一級-。保存を呼びかける研究者や市民らは、同倉庫を「横浜のソウル(魂)」と称する。

◇行政に不信感 所有者のケン・コーポレーションは取材に「あくまで計画通り」と説明する。前後して、従来は歴史的建造物の保存に積極的だった市当局への批判が、にわかに高まっている。

10月23日夜、専門家らでつくる横浜歴史資産調査会が横浜・関内で開いた緊急シンポジウム。「横浜市の文化財担当者ならば、この倉庫がどれほど大事かを知らないはずはない」「市は解体を“既定路線”と捉えているのではないか」「守ろうという意思が伝わってこない」。発言したのは、建築家や都市計画コンサルタントなど、これまで行政とタッグを組んできた面々だ。市役所OBもいた。

88年、全国に先駆けて「歴史を生かしたまちづくり要綱」を定め、古い建物を都市の魅力の構成要素と定義づけた市に対し、その理解者である彼らが公然と批判を加えたのは異例といっていい。「従来こんなことはなかった。それほど不信感がある」(参加者)

もちろん、市も同倉庫の価値を認識している。既に91年の時点で、市都市デザイン室は「極めて貴重な遺構」と出版物に明記し、94年には市文化財課も「日本大通りに欠かせないモニュメント」と評価した。

しかし今回、同室も市生涯学習文化財課もそろって「所有者に保存や、文化財指定を受けることをお願いしたが、同意を得られなかった」との説明に終始した。

◇まだ間に合う 吉田名誉教授はなお問いかける。「1世紀にわたって街になじんだ建物は、社会的な存在ともいえるはずだ」。街の情景、雰囲気をどう守るか。「万能薬」はないが、知恵はまだある。

横浜市立大の鈴木伸治教授(都市計画)は、東京駅赤れんが駅舎を例に挙げる。建物上空の未利用容積率を売却し、保存復元の工事費に充てた「特例容積率適用地区制度」を、「みなとみらい21(MM21)地区や関内地区の再開発と連動させればいいのではないか」。堀さんも「市として、市有地との等価交換をして残すべきだ」と提案する。

求められるのは「残したい」という意思表示と、所有者が納得し、折り合いをつけられる多様な選択肢。同調査会は「『歴史を生かしたまちづくり』の要を失うわけにはいかない。絶対に諦めない」と引き続き保存を模索する。行政との温度差が際立っている。

戦後しばらくの間、横浜の中心街・関内地区は戦災と接収で荒廃していた。都市ヨコハマの再生は、わずかに残った歴史的建造物の価値を認めて積極的に保存し、明治、大正期の「近代」と昭和以降の「現代」が同居する個性的な街並みを築き上げた歩みだった。

その推進役を1960年代から担った市企画調整局(都市整備局の前身)局長で技監だった故・田村明氏は、歴史的建造物そのものが「横浜らしさ」と断じた。安易に取り壊すのではなく未来に歴史をつなげることが大切と述べていた。

その成果がみなとみらい21(MM21)地区の赤レンガ倉庫やドックヤードガーデンであり、「横浜三塔」と呼ばれる県庁、横浜税関、横浜市開港記念会館などの歴史的建造物だ。

しかし、2008年のリーマン・ショック後、市の軸足は保存から開発へと目に見えて移った。同年10月に閉店した中区の横浜松坂屋の跡地計画をめぐり、アールデコ調の外壁の一部保存復元の構想があったのにもかかわらず、市は解体を認めた。地元や事業者から早期の営業再開を求める声が上がり、経済振興を優先させたためだ。

三井物産倉庫と同じく遠藤於菟が設計し、大正期に建造された旧帝蚕倉庫群があった同区の北仲通北地区の再開発事業では、倉庫3棟のうち1棟の保存を条件に市は高層ビル建設を認めたが、リーマン・ショックによる計画凍結の後、倉庫全てを解体するという事業者の方針転換を市は追認。倉庫群の「歴史的な景観」を守るため、07年に市長の諮問機関・市都市美対策審議会などで専門家が重ねた議論がほごにされる結果となった。

「(相応の負担になる)保存を強く求めることで、事業者の開発意欲をそぐ結果になってはならない」と市幹部は釈明する。この半世紀で歴史的建造物をめぐる市の考え方が大きく揺らぐ中、「横浜らしさ」とは何かが問われている。

◆「旧三井物産倉庫」解体 横浜市都市デザイン室と生涯学習文化財課によると、所有する東京都港区のケン・コーポレーションが今年5月、市に解体の意向を伝達。日本建築学会関東支部や日本建築家協会関東甲信越支部、市文化財保護審議会の委員有志などが保存要望書を提出した。国や県、市の文化財などに指定されておらず、保存のための規制対象外。所有者は長らく総合商社の三井物産が全額出資する物産不動産だったが、昨年ケン社に移っていた。解体後の跡地利用として駐車場やホテルの案が上がっている。

【神奈川新聞】


帝蚕倉庫群
帝蚕倉庫群

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