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老舗外国人バーマスターが見た半世紀 ミナトの移ろい映し続ける

社会 神奈川新聞  2014年09月30日 10:00

店内の舞台でポーズをとる上西さん=ゴールデンカップ
店内の舞台でポーズをとる上西さん=ゴールデンカップ

 東京五輪が開かれ、日本列島が感動と興奮に包まれた1964年。横浜に外国人を相手にした2軒のバーが誕生した。米軍が住宅地として接収した本牧地区の「ゴールデンカップ」と、横浜に寄港した貨物船のギリシャ人船員がこぞって集った中区曙町の「アポロ」。時代を経て米兵は去り、船員の姿も街から消えた。2軒の日本人老マスターは励まし合いながら、半世紀にわたるハマの移ろいを見続けてきた。


■輝く黄金の杯
 横浜高島屋で8月に開かれた展覧会「ヨコハマ グラフィティ ザ・ゴールデン・カップスの時代展」。会場には往時のゴールデンカップの店内が再現され、ライブに出演していたエディ藩(67)らバンドメンバーの演奏やトークに沸いた。

 古希を迎えた来場客の一人は開店当初の様子を「本当に遊び慣れた友達と一緒でないと、店に入れなかった」と懐かしそうに話した。半世紀前-。未明の店内は米兵が100人以上ひしめき合い、たばこや葉巻、香水や汗のにおいが入り交じっていた。1本150円の小瓶ビールを握り締めながら、大音量の音楽や激しいダンスに熱狂した。

 「あの雰囲気は外国人がつくり出したもの。日本人ではまねできなかった」。店主の上西四郎(82)は当時をそう振り返る。京都市生まれの上西は、洋服店を開くつもりで知人を頼って本牧に来た。外国人バーは既に「イタリアンガーデン(IG)」と「スターダスト」の2店があった。若い米兵がポンと現金を支払い酒を手にする様子に、思わず息をのんだ。現在の物件を見つけるとためらうことなくバーを開いた。32歳のことだった。

 横浜中華街にあった進駐軍クラブ「ゼブラクラブ」の営業が終わった午前0時を過ぎたころ、酔った米兵たちが押し寄せてきた。開店の午後6時から午前0時までが暇だった。そこで上西はR&B(リズム&ブルース)の専属バンドを置いた。後に絶大な人気を誇るザ・ゴールデン・カップス。日米の若者が交わることで本牧文化が生まれた。


■ハマの太陽神
 最盛期の60年代には180軒も外国人バーがあった横浜中華街では、石原清司(76)の義兄が米兵相手のバーを開いていた。石原は19歳の時、義兄の紹介でウエーターとして働き始める。52年ごろに曙町に開店した横浜初のギリシャ・バー「スパルタ」だった。

 いったん辞めて義兄の下でバーテンダー修業をした。日立造船で働いたり、実兄の会社でダンプ運転手をしたりしたが、26歳でスパルタのギリシャ人オーナーから呼び戻され、64年10月にのれん分けでアポロを2階に開いた。高度経済成長期を歩んでいた60年代。日本経済の玄関口である横浜港は全盛時代を迎えていた。港内は岸壁が空くのを待つ貨物船であふれ、貿易取扱量は急速に増えた。

 数多くの貨物船に乗り組むギリシャ人船員が伊勢佐木町を抜けてアポロやスパルタに向かった。「チャンさん」と呼ばれていた石原は「船が着くと店内は混雑でぐちゃぐちゃ。本当にすごかった」と目を細める。貨物船は荷役作業で1カ月間ほど出港を待たされた。「ギリシャ人船員は横浜に3千人はいた。1ドル=360円の時代だから毎日楽しく飲んで過ごした」。石原と同世代のギリシャ人で、船乗りだった60年に横浜に訪れたマルケジーニス・ジョージは当時の様子を思い起こす。

 ジョージはいま、横浜でアテネ、オリンピア、ゾブラの3店舗を営む。70年に船を降り、アポロの近くで最初の店を構えた。事業を拡大しスパルタの経営に関わったこともある。ギリシャ人船員の中にはスパルタの女性従業員らと結婚し、近くに飲食店を開く者もいた。最盛期は30軒に増え、夜が更ければアポロがたまり場となった。


■夜の主役交代
 50年代後半から60年代にかけて米軍将校相手の娼婦(しょうふ)たちが横須賀を離れ、横浜の曙町から黄金町一帯にかけての「親不孝通り」周辺に相次いで移っていた。純白の衣装に身を包んだある娼婦の人生を追ったドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」監督の中村高寛(たかゆき)(39)は、横浜が接収から復興・発展に転換した象徴的な現象として捉えている。

 背景の一つは、大さん橋や新港ふ頭などを中心に接収解除が進んだこと。ミナトがこれまでにない活況を迎え、横浜に大勢の男たちが集まってきた。外国人船員や荷役などを担う港湾関係者など、さまざまな男たちが親不孝通り周辺の歓楽街でハマの夜の主役となっていき、米兵は少しずつその地位を譲っていった。

 実際に、ベトナム戦争が終結した75年、ゴールデンカップに米兵が突然来なくなった。上西はいち早く日本人相手の商売に移り、関内からホステスを連れた客が大勢訪れるようになった。82年の本牧接収地の返還を経て、バブル崩壊をきっかけに関内からの客の流れが消えた。

 現在は連日ライブ上演を続けており、地方からも客が訪れる。上西は「若いのがお酒を飲まなくなった。この商売が難しくなったのは確か」と“主役不在”の時代を嘆く。一時代を築いたギリシャ人船員も70年代の石油ショックの影響で貨物船の入港隻数が減少し、コンテナ船の登場と急速な普及もあって横浜でほとんど見かけなくなった。アポロはギリシャ神殿風の外観と布団張りの内壁やレトロな照明など、当時のまま守り抜いてきた。「棒タイ」と黒ベストという昔ながらの姿で接客する石原を慕う若いバーテンダーや地元の常連客らが足繁く訪れる。

■50年続く交流

 外国人を相手にした厳しい夜の世界に身を置く上西と石原は、半世紀にわたって交流を続けてきた。石原がゴールデンカップ開店初日に上西を訪れたことで、家族ぐるみのつき合いが始まった。石原の長男が初節句を迎えたとき、上西はわが子のように成長を喜び兜(かぶと)を贈った。上西が飼っていた犬を石原が預かったこともある。

 2人とも同じ境遇を経て、この世界にたどり着いた。上西は実家の服飾関係の会社が倒産し、古里を離れた。石原は両親を相次いで亡くしたことで家業の酒屋が廃業になっていた。互いの店で飲んでは何でも相談できる間柄となった。60年代のハマの面影を色濃く残すそれぞれの店で、2人の老マスターはきょうもカウンターに立つ。

 年のせいで、上西は好きだった酒が飲めなくなった。それでも、横浜高島屋には多くの地元ファンが集ってくれた。「まだまだこうして働かさせてもらっている。これからも頑張れるだけ続けていきたい」と意気盛んだ。石原は50周年を祝う常連客から矢継ぎ早に注がれた酒に酔ったのか、「次の東京五輪まで、なんて言ってたけど、100歳まで頑張っちゃおうかな」。甲高い声で笑った。 (敬称略)

◇ゴールデンカップ 午後6時~午前3時、日曜定休。12月7日に開業50周年記念イベントを開く。横浜市中区本牧町1の46、電話045(623)9353。

◇アポロ 午後7時~午前3時、火曜定休。10月1日が開業記念日。横浜市中区曙町4の45、電話045(261)2576。


船員たちに愛されたギリシャの酒を説明する石原さん=アポロ
船員たちに愛されたギリシャの酒を説明する石原さん=アポロ

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