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時代の正体〈22〉関東大震災朝鮮人虐殺(上)震災作文が問う「反省」

時代の正体 神奈川新聞  2014年09月09日 11:15

フィールドワークで関東大震災韓国人慰霊碑の説明をする後藤さん=1日、横浜市南区の宝生寺
フィールドワークで関東大震災韓国人慰霊碑の説明をする後藤さん=1日、横浜市南区の宝生寺

 関東大震災直後に横浜で起きた朝鮮人虐殺の実態を歴史資料から掘り起こし、語り継いでいる人がいる。横浜市立中学の元社会科教師、後藤周(あまね)(65)。市井の人々を凶行に駆り立てた惨劇から91年、秘された歴史の暗部は今に何を問い掛けるのだろう。

 打ちつける雨が石碑をしとどに濡らす。横浜市南部の緑濃い丘陵のふもと、宝生寺(南区)。関東大震災韓国人慰霊碑を背に後藤の解説が続いていた。

 「李(イ)誠七(ソンチル)という朝鮮人が建てたもので、彼は農家にかくまわれ、難を逃れることができた」

 震災から91年を迎えた9月1日、朝鮮人虐殺の痕跡を訪ねるフィールドワーク。後藤が居住まいをただす。

 「碑に刻めば歴史は100年先も残る。資金集めに多くの協力もあった。先人の思いに、真実を明らかにしなければと励まされる」

 故郷の岡山を離れ、横浜市立蒔田中に赴任したのは1972年。宝生寺は学区にあった。訪ねると住職が由来を教えてくれた。

 「知識はあったが、碑を前にして初めて実感できた。朝鮮人は横浜のここで殺されたのだ、と」

 ライフワークとする史実発掘の原点。虐殺の舞台、横浜はまた、その子孫の在日コリアンが多く住むまちでもあるとほどなく知る。差別を前に出自を隠さざるを得ない在日の子どもの苦しみに触れ、「差別の問題と向き合うには虐殺の歴史は避けて通れなかった」。差別による最大の悲劇、それが朝鮮人虐殺にほかならなかった。

実相


 市内全域に及んだ横浜の虐殺の実態は公的史料に具体的な記録がないため、つかめていない。

 後藤が着目したのが、市内の小学生が当時を振り返って書いた「震災作文」だった。南吉田第二小、寿小、石川小の子どもたちは最も早くデマが流れた南部の丘陵に避難していたため、生々しい筆致が当時の切迫感を伝える。

 〈『朝鮮人だ』『鮮人が攻めて来た』といふ声が、とぎれとぎれに聞こえた。あまりの驚に、どうきは急に高くなった。(中略)きん骨たくましい男の方達はそれぞれ竹を切って棒にしたり鉢まきをしたりと用意に急しくなった。(中略)萬一の用意にと女子供までも短い棒をもった〉(南吉田第二小6年)

 流言を信じ込み、武器を手に身構える人々。殺害は警察により促されてもいた。

 〈さっき逃げたところへ行くとおまわりさんが『朝鮮人が刃物をもってくるから、来たら殺してください』と言って来ました〉(南吉田第二小6年)果たして、朝鮮人が襲ってくることはなかった。

 4日、横浜に到着した神奈川警備隊司令官の奥平俊蔵は自叙伝「不器用な自画像」でつづった。

 〈之(流言)を徹底的に調査せしに悉(ことごと)く事実無根に帰着せり〉

自覚


 600人以上の作文を読み込み、後藤は気付いた。

 「暴動はデマだったという事実が子どもに伝えられていない。迫害を反省し、朝鮮人に心を寄せている作文は一つしかなかった」

 様子は克明に描写されていた。

 〈中村橋の所へ行くと大勢居るから行って見ると鮮人がぶたれて居た。こんどは川の中へ投げ込んだ。すると浴いだ日本人がどんどん追いかけて来て両岸から一人づつ飛込んでとび口で頭をつっとしたら、とうとう死んでしまった。其れから、家へかへって見た。すると鮮人がころされて居るといふので見に行ったら頭に十箇所ぐらい切られて居た。又くびの所が一寸ぐらいで落ちる〉(南吉田第二小6年)

 書かれたのは南吉田第二小が3カ月後、寿小が半年後。

 「被爆者が当時のことをつづれば、二度と繰り返してはいけないという切実な願いがにじむ。震災作文にはそれがない。大人が伝えていないからだ。子どもの無自覚は、大人の無自覚でもある」。後藤は続けた。「だからこそ次の戦争の時代は用意できたのだろう」

 当時12歳だった小学6年生が徴兵年齢の20歳になるのは震災8年後の1931年。この年、満州事変が起き、1年生が20歳になる6年後の37年、日中戦争は始まった。

 「アジアの隣人を思い込みで殺してしまったことへの反省なきまま、侵略戦争に駆り出され、あるいは担った世代といえる」

 歴史の事実を伝える意味を震災作文が教えてくれていた。

関心


 2008年、デマに基づく朝鮮人虐殺を「日本の災害史上最悪の事態」と位置付けた政府の中央防災会議の報告書「1923関東大震災」は書く。

 〈広範な朝鮮人迫害の背景としては、当時、日本が朝鮮を支配し、その植民地支配に対する抵抗運動に直面して恐怖感を抱いていたことがあり、無理解と民族的な差別意識があったと考えられる〉

 植民地支配が始まったのは震災の13年前の1910年。土地を奪われた農民たちは困窮の果て、出稼ぎに海を渡った。「日本の人々は目の前の朝鮮人に無関心だった。そこに蔑視が重なれば差別と偏見が芽生える」。後藤はだから、他者に心を寄せる大切さを子どもたちに伝えたいと思ってきた。

 フィールドワークでは西区の久保山墓地に建つ殉難朝鮮人慰霊之碑にも足を運んでいた。

 裏面には「昭和四十九年九月一日、少年の日に目撃した一市民建之」と刻まれる。震災時、小学2年生だった石橋大司が50年後、私財を投じて建立した。避難する途中で目にした、電柱に後ろ手に縛られて殺されていた朝鮮人の姿に贖罪(しょくざい)の念を抱き続けていた。

 心を寄せていた子どもがここにもいた-。

 40人の参加者を前に穏やかな後藤の口調がにわかに強くなった。

 「その反省の気持ちが歴史とともに消されようとしている」

 中学1年生向けの社会科副読本「わかるヨコハマ」に掲載されてきた碑の写真が削除されたのは2013年のことだった。 =敬称略

◆関東大震災時の朝鮮人虐殺 1923年9月1日の関東大震災後間もなく、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」といったデマが流布し、自警団や警察、軍隊が朝鮮人と思われる人を捕らえ、暴行や拷問により殺害した。政府の中央防災会議の調査報告書「1923関東大震災」(2008年)では「関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」とし、「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷事件を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」との見解を示した。


南吉田第二小の子どもたちがつづった「震災記念綴方帖」(後藤さん提供)
南吉田第二小の子どもたちがつづった「震災記念綴方帖」(後藤さん提供)

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