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結成25周年を迎えたLUNA SEAのギタリスト〈5〉
SUGIZO「セカンドインパクト」

カルチャー 神奈川新聞  2014年08月15日 14:29

東京・日比谷公園であった復興支援の催しで=2014年3月、SUGIZO提供
東京・日比谷公園であった復興支援の催しで=2014年3月、SUGIZO提供

 2014年5月29日に結成25年を迎えたLUNA SEAは8月15日現在、約14年ぶりのホールツアーで全国をまわる多忙な日々を送っている。千葉・松戸で幕開けし、新潟・石川・岡山・長野・大阪・愛知とここまで14公演を行い、宮城・静岡・北海道と続いていく。年末はさいたまスーパーアリーナ、横浜アリーナで公演し、年明けには再びホールツアーを再開。2月には神奈川県民ホールにがい旋し、3月の東京でクライマックスを迎える予定だ。

 ツアー前、東京・代々木で行った“バンド25歳”を祝うライブには、全国から1万3000人が集結した。割れんばかりの歓声に包まれた華やかな夜から、わずか2日後、SUGIZOは夏の日差しを思わせる空の下、「千年希望の丘」(宮城県岩沼市)であった植樹祭に出向き、ひとりの人間として汗を流していた。「東北は僕にとってもはや第二の故郷。植樹祭には前から行きたいと思っていたので、今回やっと念願がかないました。忙しいのは、もうずっとだから。飲んでワイワイする時間や、眠る時間を削ればどこへでも行くことができます。震災から3年が経っていますが、まだ立ち入り禁止区域もあるし、自宅に帰ることができずにいる方も9万人ほどいます。震災の傷はまだ癒えていないんですよ」と口惜しそうに話した。

 SUGIZOは震災直後の4月からこれまで、石巻、雄勝、女川などにボランティアの一員として足を運び、ヘドロ除去などを手伝ってきた。同年5月に話しを聞いた際、「被害を見たとき、いても立ってもいられなかった」と言い、力仕事をかって出た理由について当時は、「いま必要なのは音楽ではないと思ったから。音楽や芸術は素晴らしいものだけど、お腹が満ちるわけではなく、物理的に人を助けることはできない。いま僕にできることは自分の身体を使うこと。被害にあった人が安心して食べることができて、眠ることができる。生活する環境を取り戻すことができたとき、音楽を奏でられるときが来ると信じています。音楽はなくても生きていかれるけれど、音楽がないと心が死んでしまいますから」と語っていた。

 ことしの3月11日。SUGIZOは東京・日比谷公園であった復興支援の催しで、陸前高田の景勝地・高田松原の松で作った「祈りのバイオリン」を手に追悼演奏した。松は津波によって7万本が流されたが、1本だけ残っていた「奇跡の一本松」(現在は枯死)を楽器として再生させた。倒壊した家は“がれき”と片付けられてしまうが、その地に息づいたいたものにとっては、どれも“思い出”。震災を経験した木から発せられた“声”は、苦しい、悲しい、切ないなど、いろいろな感情が入り混じった人々のうめきだった。

 穏やかに晴れていた空は、音が広がるにつれ薄暗い箇所ができ、渦のような風が巻いていた。ステージ横の木の葉が、ざわざわ大きく揺れる。目に見えないなにかと、この地が音によってつながった。そう感じられた。SUGIZOはこのときの演奏について「トランス状態で、よく憶えていない」と振り返ってる。

 SUGIZOの父は「人の声を表現できるから」と3歳の息子にバイオリンを持つことをすすめた。筆者はSUGIZOの演奏に触れると、魂をすくい上げられているような感覚になる。音は空気を伝わる振動。ひとつの刺激なのだけれど、その中にあるエネルギーに救い上げられているのだと感じている。

第5回 -セカンドインパクト-



 向かう場所を定められずにいたSUGIZOを目覚めさせたギター。埋まらなかった心に、ぴたりとはまったピースは、身体の一部になった。勝負の道具を手にしてからは、「誰よりもうまく。誰よりも速く」と練習に時間を費やしていく。

 SUGIZOが運命の出合いをした少し前。真矢にも転機が訪れていた。それは高校1年生の2学期ころ、トランペット奏者の父が自宅に作った18畳ほどの音楽ルームに置いていたドラムセットを真矢が「たたかせて」と向き合ったとき。うれしそうにスティックを持ち軽快に刻んだリズムは、8ビートなど初歩的なものだったが、「なんだこのグルーブは!」と驚き「こいつとやっていくんだ!」と心に決めた。先輩と組んでいたバンドのドラムが抜けたとき、すぐに真矢に声をかけた。真矢とのライブは16歳、高校1年生の3学期が最初だ。それ以来、真矢とSUGIZOはずっと一緒に成長を重ねている。

 伊勢原高校時代、“やんちゃ”だったSUGIZOは、すらっとした風ぼうもあり、女生徒のあこがれの的だった。午後になってから顔を見せた学校では、教室よりも軽音楽部の練習ができる視聴覚室にいる時間の方が長かった。放課後には伊勢原にあったリハーサルスタジオに出向き、音楽仲間を増やしていく。スタジオには、後にSIAM SHADEのドラマーになった秦野出身の佐久間淳二などもおり、原石たちが顔を突き合わせていた。スタジオでの出会いをきっかけに近隣高校のバンド仲間と自主企画イベントを開催するなど頭角を現していく。SUGIZOと真矢がいた「PINOCCHIO(ピノキオ)」は秦野・伊勢原中で話題で、地元の文化会館に、2~300人ほどの客を動員する人気があった。

 自宅の音楽ルームを改造し、真矢が東京・御茶ノ水で買ったドラムセットを置き、苦情を浴びながらふたりで練習に没頭した。練習を終えるとパンツ1枚になって屋根に上がり、一緒に星を数えたり、音楽について語り合ったり、真矢とは同じ布団で寝たこともある。足りないと求めていたかけらを手にし、充実した日々だった。時が過ぎていく中で、同級生は進学や就職など進路を決めていく。SUGIZOは、「これが天職になる」と信じたギターと生きることを決意していた。思いを共に貫くのは、互いの宇宙を広げ、ふくらませた真矢しかいない。

 高校2年生の夏。SUGIZOは真矢の自宅を訪れて言った。「オレたちだったらプロになれる」。「お前、夢みてるな」と真矢は吐き捨てた。SUGIZOは「絶対やればなれるんだよ」と一晩、真矢を口説いた。真矢は当時の担任の先生に「ドラムでプロになる」と進路相談で告げたところ、その当日に親が呼び出されたことがあったという。

 伊勢原のスタジオでは、大秦野高校に通っていたINORANとJとの出会いもあった。ふたりは1986年に友人らとともに、LUNACY(現在のLUNA SEA)を結成。PINOCCHIOとLUNACYは兄弟バンドとして、同じライブハウスのステージに立っていたが、後にPINOCCHIOが解散。1989年にはLUNACYもINORANとJだけになり、ふたりは真矢に「一緒にやらないか」と持ちかけた。このとき真矢が「いいけど、SUGIZOと一緒じゃなければイヤだ」と話し4人が同じバンドに。SUGIZOは「地元の超実力者が集まったな」と物語が始まっていくのを感じた。

 夢をつかもうとまい進する4人のもとに、登場したフロントマンはRAYLA(後のRYUICHI)と名乗った。高校を中退しプロのミュージシャンを目指していた少年は頭を紫色に染めていた。対バンをしたライブハウスで声を聞いたことがあったSUGIZOたちは、「彼はいい」と存在を意識していた。RAYLAが元々いた「SLAUGHTER」というバンドが解散することを聞いたとき、迷わず声をかけた。「1番危険なロック少年に思えた。紫の頭、ピタピタのパンツ。威圧力があって、こいつが入ったら強力だ」と信じて疑わなかった。

 1989年、LUNA SEAのメンバーが顔をそろえた。「5人で合わせてみよう」。放った音に、RAYLAの声が重なったとき、SUGIZOには初めてギターを持ち、音を出した、あの衝撃がよみがえった。

 セカンドインパクト--。

 ついに立ったスタート地点。抑えられない気持ちは音楽制作にぶつけた。ギターと心中したいと願った。同年5月29日、LUNACYは、「町田プレイハウス」のステージに立つ。わずか100人ほどの客の前で行ったライブ。5人で「これだ!」と確信した。

 あふれ出るインスピレーションから生まれた壮大な曲たち。5人は曲が求める場所へと導かれていくのだと、SUGIZOは感じていた。


東京・日比谷公園であった復興支援の催しで=2014年3月、SUGIZO提供
東京・日比谷公園であった復興支援の催しで=2014年3月、SUGIZO提供

東京・日比谷公園であった復興支援の催し=2014年3月。舞台の横にソーラーパネルを設置し、太陽光発電でライブを行った
東京・日比谷公園であった復興支援の催し=2014年3月。舞台の横にソーラーパネルを設置し、太陽光発電でライブを行った

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