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もう一つの「風立ちぬ」(下)託す 平和に役立つ技術こそ

社会 神奈川新聞  2014年08月15日 03:00

種子島時休(右端)と鈴木雅英さん(右から2人目)ら学生=1970年ごろ(鈴木さん提供)
種子島時休(右端)と鈴木雅英さん(右から2人目)ら学生=1970年ごろ(鈴木さん提供)

戦後、日産自動車を経て防衛大学校で教えた種子島時休(ときやす)は1970年の定年退官に際し、「太平洋海戦と軍人技術者の反省」という文をまとめた。

若くして散った特攻隊員にわびるとともに、自らも含めた技術者の反省をこう記した。

「軍人技術者として、軍令部の用兵家に技術面から真実を説得する勇気ある技術者がいなかった結果、戦略上の誤りを正すことができなかった」

自らが開発した日本初のジェットエンジン「ネ20」を搭載した特攻機「橘花(きっか)」は、日の目を見ずに終戦を迎えた。それでも当時、その技術の完成が多くの青年の命を奪うことになると、どれほど思いをめぐらせたことか。行間からは強い自責の念がにじむ。

時休はその後、東海大学湘南キャンパス(平塚市)で教授として一般の学生を教えた。若き日に情熱を傾けて「ネ20」を完成させた秦野は、目と鼻の先にあった。

だが-。「先生はネ20の開発の苦労は話しても、秦野での思い出を語ることはなかった」。時休の下で学び、研究助手時代を合わせて4年間付き添った鈴木雅英(70)=藤沢市在住=は続ける。「日本初のジェットエンジンを造ったという誇りがある一方で、自分も戦争に加担したという負い目もあったように思える」

今も覚えていることがある。

ある日、自衛隊に進んだ防衛大時代の教え子から、最新鋭の戦車を見に来てはどうかという誘いがあった。最先端の技術を見られるチャンスに学生は色めき立った。しかし時休は「戦争のために使うものを見たって仕方がないだろう」と、にべもなく断り、こう呼び掛けたという。

「それよりも、人の役に立つものを作ろう」

「先生はいつも、心ある学問・研究でないと人の役には立てない、技術は平和利用のためでなくてはならないと言っておられた」。鈴木は時休のアドバイスに従ってセンサーを用いた防犯技術の会社を設立している。

軍事につながる産業に進む道もあったが、時休は戦後間もなく日産自動車に入社。振動を軽減する「フリーピストンエンジン」の開発に取り組んだ。数々の特許も出願し、将来性について熱く語ったという。

防衛大では車両工学を教えたほか、ジェットエンジンのトンネル掘削機などへの転用も研究。定年退官の際には「柔軟なシステム思考を身につけてほしい」と学生に語ったという。一つの考えに凝り固まらず、どんな技術が人の世を照らすために求められているのか考えてほしい。海軍の技術者だった自身の“後輩”になるかもしれない学生たちに、自責の思いも込めて贈った言葉だった。

85歳で世を去った時休は晩年、「ネ20」をともに開発した永野治(故人)に、こんな手紙を送ったという。

「老生は、命がけだった当時の記憶を常に思い出しますが、歴史は生きております」

歴史は生きている-。69年前と地続きにあるはずの現在、言葉の意味を思う。

=敬称略

【神奈川新聞】


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