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ある中国残留孤児の夢(上)不幸な体験二度と

社会 神奈川新聞  2016年11月23日 11:36

昔の写真を取り出しながら話す猿田さん=横浜市鶴見区の自宅
昔の写真を取り出しながら話す猿田さん=横浜市鶴見区の自宅

昔の写真を取り出しながら話す猿田さん=横浜市鶴見区の自宅
昔の写真を取り出しながら話す猿田さん=横浜市鶴見区の自宅

 第2次世界大戦末期の混乱で中国残留孤児となり、41歳の時に永住帰国した男性が半生を振り返る映像作品づくりを進めている。終戦後の中国の過酷な環境下で家族を次々と失い、中国人養父に育てられた。悲願の帰国後も言葉が通じぬ祖国の生活は厳しいものだった。映像制作に込める思いとは-。


 JR南武線の尻手駅に近い、横浜市鶴見区の住宅地。マンションの一室に猿田勝久さん(73)は暮らす。10年前に百貨店内の営繕会社を定年退職し、いまは日本語ボランティアによる日本語教室に通う日々だ。

 その数は8カ所にも上る。上大岡、関内、武蔵小杉、桜本…。毎日、横浜、川崎両市内にあるどこかの教室に足を運んでいる。自習も1日3~4時間は日課だ。

 「30年前に帰国した時は五十音さえ分からなかった。食べていくためにすぐに働きに出た。小さい頃に過ごした中国でも、帰国後も勉強するチャンスがなかったから、2年前まで日本語を話せなかった。いまはチャンスがいっぱいあるのだから、無駄にしてはいけないでしょう」。すっかり上達した日本語で話し、笑顔を見せる。

 いま取り組んでいるのが、川崎市国際交流協会が行う外国人市民向けの映像作品の制作プログラムだ。デジタル・ストーリー・テリングと呼ばれる米国生まれの手法を使い、昔の写真を使った7~8分間の映像に自らが日本語でナレーションを付ける。制作を通じて日本語の表現力を身に付け、完成した作品の上映会を地域社会で暮らす外国人理解に生かそうというユニークな企画だ。

 猿田さんは日本で生まれた日本人だが、中国で40年近く生きた。作品づくりに参加した思いをこう語る。

 「私が被ったような不幸な体験を、二度と誰にもしてほしくない。戦争を繰り返さないでほしい。少しでも若い世代の人に知ってほしいとの思いはあります」

 猿田さんは1943年10月、川崎市幸区に生まれた。軍需工場で働く父と母、祖母の4人で暮らしていたが、45年4月15日の空襲で焼け出され、山梨県大月市に疎開した。

 「満州(中国東北地方)に行けば安定した暮らしができる」との国の呼び掛けに父は決心する。猿田さん1歳半、終戦のわずか2カ月前のことだ。


 新潟港を出た3隻の船のうち2隻が爆撃を受けて沈められ、猿田さん一家を乗せた船だけが中国の港に着くことができた。だが国内は混乱し、満蒙開拓団のいる中国黒龍江省ハルビン市の日本人居住区までたどり着けなかった。

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