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相模トラフM8級 600年間に3回、鎌倉時代の発生初認定

社会 神奈川新聞  2014年04月27日 03:00

「永仁関東地震」の決め手の一つとなった津波堆積物調査。明応期の堆積層は見つからなかった=2008年12月、三浦市・小網代湾
「永仁関東地震」の決め手の一つとなった津波堆積物調査。明応期の堆積層は見つからなかった=2008年12月、三浦市・小網代湾

関東大震災に匹敵するマグニチュード(M)8級の巨大地震が起きるのは200年おきか、400年おきか-。政府・地震調査委員会が最新の知見を踏まえ、その両方を認める結論を導いた。震災前のM8級は約200年さかのぼった江戸時代の地震しか分かっていなかったが、さらにその約400年前の鎌倉時代に起きていたと初めて認定。研究は一歩進んだ形だが、発生間隔はばらつく結果となり、周期の絞り込みにはつながらなかった。一方、室町時代に別のM8級があったとの新説も提唱されており、解明は道半ばだ。

相模湾から房総沖へ延びる相模トラフでのM8級でこれまでに分かっていたのは、1923(大正12)年の関東大震災(大正関東地震)と1703(元禄16)年の元禄関東地震の2回のみ。それ以前から周期的に繰り返し、津波も発生させていたはずだが、房総の一部に地震による地形の隆起痕が残る程度で、地震の発生年代や被害状況は明らかになっていなかった。

新たにM8級と判断された1293(永仁元)年の永仁関東地震については逆に古文書で時期が特定されていたものの、地形の痕跡が乏しく、地震の規模などが不明だった。

史料も多くはなく、「建長寺が炎上したと書き留めた日記に浜辺で140人が死んでいたとの記述はあるが、津波という言葉は出てこない」と鎌倉市の浪川幹夫学芸員。死者数も別々の年代記に2500人とも2万3千人とも書かれており、はっきりしないという。

こうした中で調査委が永仁をM8級と位置付けたのは、最近になって三浦市の小網代湾で該当する時代の津波堆積物が見つかり、神縄・国府津-松田断層帯の発掘調査で断層の活動時期などが判明したからだ。ただ、これらの証拠が示す年代にはそれぞれ数百年程度の幅がある。永仁は当然含むが、この時期は大地震の多発期で1241年や1257年にも鎌倉に被害を及ぼした地震があったため、永仁をM8級と決めたことには研究者の間から異論も出ている。

周期に対する見方もさまざまだ。大正と元禄の間が220年だったのに対し、永仁を認めたことで元禄との間隔は410年と2倍近くになった。

この点に関し、県温泉地学研究所の所長を務めていた吉田明夫・静岡大客員教授は「自然現象である地震が一定の間隔で起きるとは限らない。今回の判断に異存はない」と受け止め、こう指摘する。「そもそも相模湾の海底構造は極めて複雑。同じようなタイプの地震が規則的に起きるとは考えにくい」

一方で、今回はM8級に認められなかった仮説レベルの地震が周期解明の鍵を握る。1495年に起きたとの説が浮上している「明応関東地震」。静岡県伊東市で見つかった津波とみられる堆積物と、鎌倉大仏の大仏殿に津波が及んだとする古文書が根拠だが、その当時は大仏殿がなかったとの記録もあり、“証拠不十分”とされた。

説を裏付ける研究は続いており、伊東でボーリング調査を行った産業技術総合研究所の藤原治主任研究員は「明応の地震があったとすれば、永仁まで過去4回のM8級はほぼ200年周期になる」と説明。採取した地層を慎重に見極めた結果、明応のころに何らかの自然環境の変化があったことが分かってきたという。

【神奈川新聞】


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