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~関東大震災90年~ 復興を超えて(5)
未曽有に学ぶ〈37〉善意(上)◆全国で避難受け入れ

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神奈川新聞  2004年09月10日公開  

(上)横浜港から数多くの避難者を乗せ、大阪に着いた貨客船「ろんどん丸」(下)「ろんどん丸」で大阪に到着した避難者(ともに横浜みなと博物館所蔵)
(上)横浜港から数多くの避難者を乗せ、大阪に着いた貨客船「ろんどん丸」(下)「ろんどん丸」で大阪に到着した避難者(ともに横浜みなと博物館所蔵)

傷つき、横たわる人々を救護する献身的な姿を神奈川新聞社の前身、横浜貿易新報が「天使降臨」と報じた日高帝。19歳だった1923年9月1日、四方を猛火に取り囲まれた横浜公園で「火の粉を払いながら」夜を明かし、負傷者の手当てを続けていたとき、傍らの青年が一杯の水を差し出した。

乾ききったのどを潤してくれた命の水。懐にあった1円65銭を渡そうとしたが、「いいですよ」と受け取らずに立ち去った青年のことが忘れられない。「いまもお水の味を覚えているし、感謝している」

その後、郷里の成瀬村(現伊勢原市)へ歩いて向かった帝は、戸塚の辺りで農家の女性に「どうぞお泊まりください」と声を掛けられる。「ワカメのような着物を脱ぐことができ、新しい浴衣をくださった。お風呂に入り、ごちそうにもなった。お弁当を二つ作ってくださって、床のなかで泣きました」

今年2月で110歳になった帝。関東大震災90年の節目を控えた昨夏、救われた経験をこう振り返った。「本当にありがたくて、胸がつかえて言葉も出なかった」

廃虚のなか、家やとどまるべき場所を失った人々。安住の地を求め、続々と横浜を離れていった。

「横浜市震災誌」がその詳細を記す。当時の東京府への避難者が最も多く、2万4272人。川崎や横須賀など神奈川県内の他地域へは2万1406人が逃れた。向かった先は全国に及び、新潟には2424人、大阪へ5456人、兵庫は1万1711人。北海道にも1090人が避難し、横浜を後にした被災者は合計で11万4301人に上った。

こうした「広域避難」は国による鉄道の無賃輸送策が後押ししたが、被災者を助けたのは鉄道だけではない。港に停泊していた船による「海路避難」。横浜開港資料館に2012年秋に寄贈された英国人女性の英文の手紙が、その一端を浮かび上がらせる。

〈私たちは夜の九時頃にエンプレス号に乗船しました。とても疲れていたので、出来るだけ早くベッドに入り、少し休もうとしました。でも、想像できると思いますが、よく眠れません。経験したすべての恐ろしいことや目の当たりにした悲惨な光景が、何度も何度もまぶたに蘇(よみがえ)りました〉

女性は乗船前、偶然にも日高帝と同じ横浜公園に逃げ込んでいた。周囲が焼き尽くされ、火災旋風も迫る公園の片隅で〈恐怖の5時間〉を過ごす。

〈叫び声や泣き声に心が引き裂かれました〉

さらに火の手が迫り、いよいよ逃げ道がなくなるなか、決死の覚悟で公園から脱出を図り、港へ。岸壁の大半が沈下、冠水した大桟橋に救命ボートでたどり着き、停泊中のエンプレス・オブ・オーストラリア号に乗り込む。

9月1日午前11時58分。この船が激しい揺れに襲われたのは、カナダに向けて大桟橋を離れようとしていたときだった。

紙テープを放ち、別れを告げようとしていた見送り客が次々と海に転落するなか、2分後の正午に予定していた出港を取りやめ、乗組員や乗船客が捜索隊と担架隊を編成。2日夜までに乗員、乗客とほぼ同じ数の生存者1901人を収容する。その後も救護を続け、出港が可能になった8日、避難を希望する人々を神戸へと運ぶ。

救助に当たったのは、エンプレス号だけではない。横浜みなと博物館学芸員の三木綾(35)は昨年、数々の記録から震災時に大小53隻の船が港内にいたことを明らかにする。被災者の収容に炊きだし、物資の輸送。それぞれに役割を果たし、1カ月間で5万5千人余りを神戸や大阪、名古屋、清水などへ運んだ。三木は行間を読みとく。「誰かの指示でなく、各船が自主的にできる限りを尽くしたのだろう」

受け入れた各地では青年団や婦人会などが救護に当たり、避難者に寝泊まりする場所を提供する動きも広がった。最近、震災の慰霊碑が名古屋にも存在することを突き止め、善意の広がりをあらためて実感した名古屋大教授の武村雅之(61)は今月9日、横浜での講演で問い掛けた。

「愛知には15万人も逃げてきたが、一般の市民も避難者を受け入れた。同じような支援は東京や横浜の周辺でもあった。いま、そんなことができますか」

地方への避難者は全体で100万人に上ったとされている。その動向を各地の資料から探り続けてきた国立歴史民俗博物館客員教授の北原糸子(74)は「避難した人たちは若く、苦難をはねのけて地方から戻り、復興に携わった」と指摘。そして、90年を経て少子高齢化が進んだ社会の現状に危惧を抱く。「私たちは次の世代に何かを託せるだろうか」 =敬称略

【神奈川新聞】


家々が崩れた藤沢町。写っているのは西を目指す避難者とみられる(藤沢市文書館提供、神田善四郎・芳蔵共同撮影)
家々が崩れた藤沢町。写っているのは西を目指す避難者とみられる(藤沢市文書館提供、神田善四郎・芳蔵共同撮影)

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