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時代を読む~若手論客に聞く(2)政治学者・中島岳志さん(上)まるで共産主義体制

社会 神奈川新聞  2014年01月03日 00:14

中島岳志
中島岳志

自民党が政権に返り咲き1年が経過した。その振る舞いを政治学者の中島岳志さん(38)は「保守思想が批判してきた共産主義体制のようだ」と批判する。安倍晋三政権が推し進めようとする憲法改正や集団的自衛権の行使容認、そして強行採決された特定秘密保護法案に靖国神社参拝、拡大を続ける格差社会-。「決める政治」が見落とす、あるいは見て見ぬふりをするものとは。

■保守から逸脱

安倍内閣は保守政権と言われるが、僕からすれば全くの逸脱で、どんどんと離れていくように見える。

保守思想の根本は、近代啓蒙(けいもう)主義などに基づいた革命思想に対する反発。ベースにあるのはエリートや、何人かの人間の理性によって、世の中が良くなるという完成可能性に対する批判です。

人間はどうしようもない誤謬(ごびゅう)や知的・倫理的限界を持っている。だから、保守は個の理性を超えた価値を見いだそうとする。過去に多くの人が集団的に、かつ時間をかけ、そして歴史の風雪に耐えながら形成されてきた集合的な経験知に依拠しようとする。世の中はどんどんと変わっていく。だから単なる反動ではなく、徐々に変化させていく。保守するための改革、永遠の微調整というのを積極的に受け入れるのが、保守の考え方です。

ところが安倍政権は世論の反対を押し切り成立させた特定秘密保護法の決定過程からも明らかなように、大きな変革を上から断行しようとする。自分と立場の違う人たちの言葉に耳を傾けるのではなく、自分にとって都合のいい人たちの言うことだけを聞いて、独断的に物事を進めていく。

この姿はまさに、保守が20世紀をかけて批判し続けてきた、共産主義体制そのもの。あなた方は中国共産党政権を批判しているけども、本当はああいうふうになりたいんじゃないかと言いたい。

前の第1次安倍内閣と今の安倍さんは、ずいぶん違うと思います。前はいろんな人の言うことを聞きすぎて、足を引っ張られたと思っているんでしょう。

■ポピュリスト

安倍首相は極めてあざといポピュリスト(大衆迎合主義者)です。「世論」という言葉には本来、二つの意味があった。「パブリックオピニオン(公的な意見)」を輿論(よろん)、「ポピュラーセンチメント(大衆的な気分)」を世論(せろん)と呼び、区別してきた。安倍さんが依拠しようとしているのは明らかに大衆的気分、つまり世論の方です。

いろいろな意見を聞きながら自分自身の葛藤を経て方向性を見いだすより、気分的なものに乗ってある層の支持を集めながら、独断的に物事を進めようとする。そういう独裁的な方向を、安倍さんは無自覚に歩んでいる。

■浮遊する個人

これは日本政治に20年にわたって横たわってきた問題です。小泉純一郎元首相に始まり、橋下徹・大阪市長のブームもそうだし、繰り返しやってきた。

社会が流動化し、底が抜け、みんなが大衆的な気分に偏って、社会的な中間的な立場・居場所がなくなり、特にテレビ的なポピュリズムに一体化していく。

人間は本来、「トポス的な存在」です。トポスというのは「自分が生きていくための役割があると実感できる場所」です。トポスを失った大衆社会は、みんな自分の存在意義が分からず、人は大勢いるのに個々人は孤独だという問題を抱える。

意味付けを失い、ただ個人として浮遊しているような社会は極めて熱狂的になりやすく、過去の経験知に学ばず、他の人が言うことには耳を傾けない。社会学者が言うところの「カーニバル化した社会」です。瞬間的熱狂、断片的熱狂が繰り返し表出し、そこに何らかのイデオロギーや思想は存在しない。

だから、いま社会全体に右傾化が起きていると言われているが、それよりみんなで盛り上がれるネタで「祭り」が起きている状態に近い。保守にはこういう熱狂的社会に対する違和感が強くあるはずなのに、安倍さんはむしろ乗っかろうとする。だから彼は、ネットやフェイスブックをやって、誰かを攻撃したりしていますよね。

■大衆との対決

メディアは時に、その大衆的な気分に対決する覚悟を持たなければならない。世論が中国との戦争を支持しているからといって、礼賛するかといったら違うわけでしょう。

メディアは単に報道だけではなく、政治というアリーナの一つのプレーヤー。自分たちの意思と主体を持ち、政治はこうあるべきという公論の場をつくるべき。僕は客観的報道なんて信用していない。何かを書くこととは、何かを書かないこと。「これは書きにくい」と思うことは有識者に言わせて、その有識者だってチョイスしているでしょう。

そのことを踏まえ、いわゆる多数派である意見に違うんじゃないかと言う役割もある。マス(大衆)にすり寄ることがマスメディアではなく、マスの側が「気分」で間違いを犯しているのではないかと思ったら、それを指摘するのも大切な役割。われわれ政治学者と同じ。マスを恐れるな、迎合するな、すり寄るなということです。

■永遠の微調整

こうした大衆的な気分によって専制的政治を支える「群衆」から、公的な意見を持った「公衆」になるために必要なのが、僕は「中間領域」というものになると言っている。NPOでも習い事でも、複数の人間集団に所属しているという重要性です。

意見や考えが違う人たちと、さまざまなプロセスを経て合意形成していく場が社会の中にどれだけあるか。意見の違う他者と折り合う、それが政治というもの。でもいまはそういう、国家と個人の間にある空間がすっからかんになっている。これをとにかくさまざまな形で、創り出していくしかない。

これからは成長社会ではなく、成熟社会へ向かう。どう考えても、もう経済成長は望めない。小規模化しながら、成熟へと向かっていくしかない。つまりお金はそんなに稼いでいないけども、どこか充実していて、生きがいがあって、自分の役割があって、という社会に向かっていくしかない。

民主主義は、ちゃんとやろうとすると本当に面倒な制度です。どこかにものすごい答えを持っている大思想家がいるなんて、幻想にすぎない。僕らが長い間積み重ねてきた経験知の方が、案外まともなんです。

僕たちだって生活が激変すると困るでしょう。次は車買うためにお金貯めてとか、ちょっとずつですよね、生活が変わっていくのって。結論は一歩一歩で地味ですが、漸進的前進こそが保守思想の根本。だから僕は、永遠の微調整しか信じません。

◆なかじま・たけし 1975年、大阪府生まれ。政治学者。北海道大准教授。2005年の「中村屋のボース」で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞受賞。言論誌「表現者」「週刊金曜日」で編集委員を務め、近著に「保守のヒント」「血盟団事件」「『リベラル保守』宣言」など。

【神奈川新聞】


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