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地権者 生出恵哉さん
米軍根岸住宅返還へ(上)まちの将来、見通せず

社会 神奈川新聞  2018年12月14日 10:06

生出恵哉さん
生出恵哉さん

 日米両政府は11月、米軍根岸住宅地区(横浜市中、南、磯子区)の共同使用の協議を始めることで合意した。2004年の返還合意から14年。返還に向けた道筋が示され、「大きな節目」と歓迎する声も聞かれるが、期待感よりも不安や疑念を抱く人たちがいる。地権者で「米軍根岸住宅地区返還・まちづくり協議会」会長の生出(おいづる)恵哉(よしや)さん(84)=同市磯子区=もその一人だ。自分の土地はどうなるのか、まちづくりは本当に進むのか-。戦後の混乱期に接収されてから70年余。戦争に土地を奪われ、米軍、そして日本政府に翻弄(ほんろう)されてきた人生を振り返り、かみ締める。根岸の戦後はまだ終わっていない、と。

隔絶

 
 横浜市中心部の高台に広がる根岸住宅地区。広大な敷地は3区にまたがり、面積は約43ヘクタール。東京ドーム約9個分に相当する。

 先祖代々、受け継がれてきた生出さんの土地はその一角、中区塚越にある。1945年、終戦直前に父がフィリピンで戦死した後、祖父から生前贈与された。

 接収前の古里にはのどかな里山が広がっていた。はるかに望む富士山がきれいだったことも、鮮明に記憶する。木々が生い茂り、伐採しては薪(まき)にして、生家で風呂の燃料に使った。

 当時13歳。「相続」の意味はよく分からなかったが、子どもながらに「自分の土地」だという意識はあった。だからこそ、47年の接収時の様子は強烈な印象として刻まれている。

 ある日、中村橋(同市南区)の脇から高台へと延びる稲荷坂に突然、見たこともないほど大きなブルドーザーが現れた。

 「うわーっと、それはもう、ものすごい勢いで坂を上って(造成していった)。僕の記憶では、たった1週間くらいだったんじゃないかな」

 坂の頂上に建設された米軍施設こそが、根岸住宅地区だった。ゲートが造られ、その向こうには広い庭付きの家族住宅が並んだ。一軒一軒ゆったりとした間隔で建てられ、戦後間もなく食糧難にあえぐ日本とは隔絶された別世界だった。

 「うらやましかったね。米国の裕福な生活を、まざまざと見せつけられた思いだった」

 里山だった辺りには学校が整備された。拳銃を携えた米軍関係者が目を光らせるようになった。

屈辱

 
 「昔は防衛庁(当時)の役人も横柄でね。とにかく米国の言うことばかりを聞いて『(土地を)提供せよ』と。地代と言ったってすずめの涙ほど。『何とかしてくれ』と言ってもけんもほろろで『若造が何を言っているんだ』と。米国さまさま。そんな感じだった。私も若い頃は随分、憤慨した」

 地権者の多くがそうした「屈辱的な経験」をしているはずだ、と生出さんは話す。


 04年、日米は根岸の返還方針で合意したが、事態は遅々として進まなかった。

 返還の条件とされた米軍池子住宅地区(横浜市金沢区、逗子市)の横浜市域への住宅建設計画は、二転三転。着工されないまま、ただ歳月だけが流れた。

 「いつになったら返還されるのか」。防衛省の担当者に問い詰めても「池子の住宅建設後」と、いつも変わらぬ答えが返ってくるだけ。徒労感ばかりが募った。

 今年10月、協議会として8年ぶりに根岸住宅地区へ入る機会があった。米軍関係者の先導の下、車で移動した。起伏のある地区内には今も洋風住宅が点在する。整備された道路を車で走りながら、一緒にいた50歳の息子は目を見張り、つぶやいた。「理想的な住宅地だね」

 15年12月に米軍人ら居住者は退去し、その姿はない。自分の土地だというのに降りて自由に歩くことさえ許されなかった。写真撮影も厳禁。理不尽な状況は昔も今も変わらなかった。

 事態が動いたのは今年11月14日。池子住宅建設取りやめの日米合意を日本政府が発表した。根岸住宅地区については、共同使用の協議を始める方針を示す。返還に先立ち、住宅撤去などの原状回復作業を可能にするための措置で、政府は21年度にも返還が実現するとした。

 「一歩前進。ただそれだけ」

 生出さんは今回の合意を淡々と受け止める。合意発表後、防衛省の担当者が協議会の会合の場を訪れたが、新聞報道以上の詳細な説明はなかった。「本当に3年で返還などできるのか」という疑念、そして「いつも米国の言いなり」の政府への不信感。手放しでは喜べない感情は強まる一方だ。

濃淡


 課題は山積する。

 根岸住宅地区は約6割を占める国有地と、約4割の民有地がモザイク状に混在する。「自分の土地がどこにあるかさえ分からない地権者も多い」。果たしてどうやって土地の境界を画定するのか。作業は困難で、長い時間を要すると予想される。

 返還後のまちの姿も見通せない。

 協議会は17年に、まちづくり基本計画案を策定。住宅地の整備や、隣接する根岸森林公園との一体化といった方向性を打ち出した。市は協議会案をたたき台に、跡地利用計画素案策定などの作業を進めるとするが、「地権者の考えは十人十色」と生出さん。約180人の地権者の意向を確認したことはないものの、売却したい人、土地活用したい人など、さまざまだろうと推し量る。「いっそのこと、民有地はすべて横浜市が買い取るべきだ」との意見もある。返還によって、これまで生計を支えてきた地代収入が途絶え、暮らしへの影響を懸念する声があるのも現実だ。

 親から子へと分筆するなど地権者も世代交代が進んだ。土地への愛着や思い入れに濃淡があることも否めない。地権者のうち協議会加入者は現在、3分の2程度。海外在住者もいる。

 返還が現実味を帯びてきた今こそ、一人でも多くの地権者に加わってほしい、跡地利用やまちづくりについて話し合いたいと願う。だが、「役員らに任せておけばいい」という、どこか他人ごとのような空気も感じる。

 接収から70年余という時間の長さが事情を複雑にし、解決を遠のかせている。

 一縷(いちる)の望みを託すのが横浜市だ。地権者同士による土地の交換や売買は利害関係が絡み、争いが生じかねない。だからこそ、市が主体的にまちづくりを進めてほしいと切望する。旗振り役は行政にしかできないと思っている。

 かなうならば、古里に帰りたい。接収前に見た富士山を一望する「自分の土地」に家を建て、移り住みたいとの夢を抱く。

 「いつになるかは分からない。生きている間には無理かもしれない」

 悲観的な言葉を漏らしつつも、希望は捨てない。

 戦争体験者が次々と鬼籍に入るいま、戦禍を知る数少ない世代の1人として切に思う。

 「根岸の戦後は終わっていない。新しいまちができて初めて、戦後が終わったと言える」


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