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平和と白球追い続け 旧満州生まれ 横浜国大・永山監督が勇退

スポーツ 神奈川新聞  2018年11月26日 17:55

1970年代後半に、横浜スタジアムで指揮する永山さん
1970年代後半に、横浜スタジアムで指揮する永山さん

 ことしで創立65年を迎えた神奈川大学準硬式野球リーグで、半世紀近く指導した名物監督が今秋勇退した。横浜国大の永山叡(さとし)さん(84)=横浜市保土ケ谷区。旧満州で生まれ育ち、戦後の日本で野球をプレーできる幸せをかみしめてきた。「野球の楽しさと平和の尊さを伝えてきた」野球人生だった。


「反対言える大人に」


 指導理念の根底にあったのは幼い頃に見た厳しい現実だ。父が南満州鉄道(満鉄)に勤務しており、1934年に満州の旅順(現大連)で生まれた。「気づけば兵隊に憧れて軍国少年になっていた。戦争で日本が負けるなんて思っていなかったね」と振り返る。

 敗戦で全てがひっくり返った。45年8月にソ連軍が満州を侵攻した時、永山さんは10歳だった。「中国人たちがソ連軍に連れて行かれ、目の前で銃で撃たれた。日本人だけが無事だったからか、親友の中国人の子に石を投げつけられた。命を奪われ、心も分断されるのが戦争。こんなものを繰り返してはいけないと痛感したね」

 46年夏に日本に帰還し、山梨県の高校で白球を追い始めた。3浪の末に横浜国大に入学。新聞記者を志し、野球を続けるつもりはなかったが、準硬式野球部の選手にフェンス越しにヤジを飛ばしたことから「大口たたくなら実力を見せてみろ」と誘われ、プレーすることとなった。卒業後は河合楽器の営業マンや、東京都の公立小学校で事務員として長く勤務した。


横浜国大の準硬式野球部で45年間、監督として指導に情熱を注いだ永山さん=横浜市内
横浜国大の準硬式野球部で45年間、監督として指導に情熱を注いだ永山さん=横浜市内

 70年代初頭、リーグの活性化に奔走していた他大学の監督から「おまえさんもやってくれよ」と半ば強引に引き込まれた指導者への道。当時は安保闘争で世間は騒がしく「戦争が再び起きるかのような不穏な空気が社会を取り巻くような気がしていた」という永山さんは、シーズン最後のミーティングで「戦争は絶対にしてはいけない。何か起きたときには反対と言える大人になってほしい」と選手たちに説くようになった。

 硬式野球部では続けられない選手や、大学で初めて野球を始める選手らの受け皿となった準硬式の舞台。指揮官としてリーグ優勝を3度経験しても、硬式のような注目を集めることはなかったが、「数え切れない数の家族」という教え子の存在が誇りだ。国公立13大学が参加する今夏の関東甲信越体育大会で優勝し、最後の秋はリーグ2位。「格好良く引退できるタイミングかな」と勇退を決断した。

 教え子の一人で、市ケ尾高・硬式野球部顧問の本屋敷隆裕さん(54)は「広島出身の私にとって、監督の教えは本当に大切なもの。私の教員生活も残り長くないし、平和への思いを生徒に伝えていかないといけないと感じる」と話す。「まいた種が花開き、継いでいってくれるといいね」と永山さん。白球を懸け橋として若者に託してきた平和への思いは、これからも受け継がれていく。


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