1. ホーム
  2. 神奈川新聞と戦争
  3. 神奈川新聞と戦争(15)1931年 事変後の好戦的社説


神奈川新聞と戦争(15)1931年 事変後の好戦的社説

フォロー・シェアボタン

神奈川新聞  2005年11月27日公開  

「日支軍衝突」の見出しで柳条湖事件を伝えた1931年9月20日の横浜貿易新報
「日支軍衝突」の見出しで柳条湖事件を伝えた1931年9月20日の横浜貿易新報

 戦後71年の夏。国を破局に導いた発端の一つが1931年の満州事変だ。当初は関東州(遼東半島先端部)や南満州鉄道付属地の警備を担うにすぎなかった日本の関東軍の独断は、翌年に傀儡(かいらい)国家「満州国」を出現させ、足かけ15年にわたった大戦に帰結した。

 本紙の前身、横浜貿易新報(横貿)は、同年9月20日の紙面で事変を報じた。「日支軍衝突」「奉天城内外完全に日本軍の掌中に帰す」の見出しで、外信記事を太字交じりで掲載した。

 「【奉天十九日発連合】東北軍の心臓と目されてゐる東大営は我軍の強襲により支那[中国]軍約二十名を捕虜にし馬匹軍器其他(そのた)多数を残し五千の東北軍は安奉線方面並に撫順方面に遁走(とんそう)し東大営は我軍のため占領された 之により奉天城内外は完全に日本軍の掌中に帰することゝなり軍政を宣布することゝなつた」

 同じページには「突然あゝいふ事件が出来ましたことは洵(まこと)に遺憾と思ひます」とする若槻礼次郎首相の談話をはじめ、南次郎陸軍相、幣原喜重郎外相、内田康哉満鉄総裁、宇垣一成朝鮮総督らの反応を載せた。

 翌21日の社説は糾弾調だった。「支那の反省を強く促せ」と題し、原因を「支那兵の暴戻(ぼうれい)なる満鉄爆破に端を発せるもの」と断定。事変の発端となった柳条湖事件は戦後、関東軍の陰謀だったことが判明したが、当時は、張学良(事件の3年前に爆殺された張作霖の子)ら東北軍による破壊工作だと発表された。

 捏造(ねつぞう)された事実に基づいたこの社説のポイントは二つある。一つは国際協調路線を重視した幣原外交への懐疑、もう一つは中国の「反日世論」への反感だ。

 幣原外交に対しては、直接の批判ではない。「軟弱外交とまで別称せらるゝほど」の外交を「可(よ)い事にして[南京政府は]終始排日運動を使嗾(しそう)[指図]し(略)我国及我国民を侮蔑」した-と、あくまで中国側に向けた非難だった。とはいえ、これ以上の軟弱外交は国益を損なう、との主張を言外ににおわせた。

 「反日世論」には直截(ちょくせつ)だった。「悉(ことごと)く平和を毒し、無理に我国に対して喧嘩(けんか)を売らん哉(や)の態度行動を繰返した」「支那民人の増長は近来洵に目に余るものがある」…。同年6月、陸軍参謀が満州(中国東北部)で殺害された中村大尉事件が起き、国内の反感が高まったことも背景にある。

 社説は、事変と満州権益の正当性を強調した。権益は「日露講和条約によつて露西亜(ロシア)より継承し、且(か)つ其後(そのご)、支那政府との条約に依(よ)つて両国諒解(りょうかい)裡(り)に獲得せるもの」。そして「既に忍ぶべからざるを久しく忍んで来た我国が、彼の暴戻なる発砲に余儀なく、茲(ここ)に遂(つい)に剣を抜いて起(た)つに至れるは正しく正当防衛」と、中国に警告するのだった。

 数年前まで国際協調外交を擁護した横貿の社説は、今や政府の主張と軌を一にし、好戦的になった。


シェアする