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記者の視点=報道部・田中大樹
時代の正体〈636〉ウチナーのこころ(上) もう十分苦しんだ

時代の正体 神奈川新聞  2018年09月29日 11:30

【時代の正体取材班=田中 大樹】沖縄本島北部の日没は早い。やんばるの深い森に抱かれ、薄暮に浸る暇はない。暗闇が一気に忍び寄り、光も音も全てをのみ込む。

 揚げ句、今月9日は雨が降り始めた。雷鳴が轟き、稲妻が走る。ヘッドライトを頼りにハンドルを握り続けていると、名護市辺野古の集落が見えてきた。

 午後9時すぎ、市議選投開票日。地元の宮城安秀さん(63)の支持者ら数十人が広場に集い、テントの下でテーブルを囲んでいた。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還に伴う辺野古新基地建設を容認する住民たちだ。当選を確信しているのだろう。嬌声(きょうせい)を上げ、缶ビールを開ける乾いた音を響かせ、泡盛の杯を重ねていた。静寂に包まれた集落内、この一角ばかりは皎々(こうこう)と明かりが灯(とも)り、宴が続いた。

 熱気が最高潮に達したのは午後11時20分ごろ、太鼓と指笛が鳴り響く中、3選確実となった宮城さんが姿を見せた時だった。傍らには渡具知武豊市長が立つ。2月の市長選で政権与党の支援を受け、新基地建設の賛否を明らかにしないまま反対派の現職を破ったその人だ。「(反対派の市政2期)8年の停滞を市長とともに取り戻す」。宮城さんが力を込めた。

 白髪交じりの男性が一足早く家路につく。声を掛けると、言葉少なに語った。

 「基地がないにこしたことはない。なんで辺野古にと思ったこともある。でも、ここには何もない。基地に頼るしかないさね」

 そして、語気を強めた。

 「金で釣られたなんて、あんたたちには言われたくない。欲しいものは何でも持ち、嫌なものは押し付ける。そんなナイチャー(本土の人)にはね」

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沖縄県知事選を迎えた辺野古の集落。通りの奥には海が広がっている=沖縄県名護市
沖縄県知事選を迎えた辺野古の集落。通りの奥には海が広がっている=沖縄県名護市

 本島北部の東海岸。辺野古に面した大浦湾は息をのむほどに美しい。新基地建設の愚行にめまいがする。

 陽光浴びる昼間はエメラルドグリーンに輝き、命あふれる原色に染まる。夜は一転、モノクロームの世界。漆黒の海が月明かりに照らされ、水面が白くチラチラと揺れる。希少動物のジュゴンがひょっこりと顔を出す。そんな奇跡さえかないそうな神話の世界だ。

 湾を挟んで北側に位置する瀬嵩の集落では、東恩納琢磨さん(57)が4選を果たした。反対運動の先頭に立ち、自身も抗議船に乗り込む。反対派の後押しを受けて当選を重ねてきたが、今回ばかりは厳しい選挙戦を強いられた。地盤の地域では長く対立候補の出馬はなく独壇場が続いたが、今回は容認派が立ち、「落選」の2文字がちらついた。

 新基地建設を事実上容認する渡具知市長は市議会では少数与党だ。対立候補の元に足を運び、エールを送った。反対派の女性はこう訝(いぶか)しがる。

 「何としても反対派を追い落とし、多数与党をつくりたかったんでしょう。『賛成は地元の総意』。そう喧伝(けんでん)したい安倍政権の思惑もあったはずです」

 果たして、新基地建設の是非が問われた市議選は反対派が過半数を維持した。2月の市長選を覆す勝利に、東恩納さんらは沸き立った。

 全ての票が確定したころには日付が変わっていた。雨も上がり、暑さもやわらいでいる。

 「地元の民意を再び示すことができました。県知事選でも沖縄の思いを示し、本土の人々に伝えたい。自分たちの問題だと考えてほしい、建設阻止に力を貸してほしい、と」

 東恩納さんは集落前に広がる大浦湾に視線を向けた。

 「私たちは十分に苦しんできた。辺野古に、沖縄に基地はいらない」

造らせぬ 母を奪った基地


 立て看板に貼られた1枚の小ぶりなポスターが目にとまった。むき出しの国家権力と対峙(たいじ)し、とがった感情ばかりがほとばしる場では、殊更にまぶしく見える。

 今月13日、沖縄県知事選告示日。私は沖縄本島北部の名護市辺野古にいた。新基地建設が進む米軍キャンプ・シュワブのゲート前では急逝した翁長雄志前知事の後継、玉城デニー候補がマイクを握っていた。

 ポスターは辺野古の海を思わせる淡いブルーを基調に、穏やかな表情で空を見上げる翁長前知事が描かれ、一片のメッセージが添えられている。

 〈あなたの勇姿を忘れない〉

 胸に迫る。これほどまでに愛され、反対派の人々の希望の光だったのだと思い知った。

 拍手がひときわ大きくなり、ふとわれに返る。

 「沖縄の海に、陸には二度と戦に使う基地を造らせない」。翁長前知事の遺志を受け継ぐ玉城候補の言葉に歓声が上がった。

 その輪の中に、金城武政さん(61)もいた。多くの辺野古住民が沈黙する中、表立って異を唱える数少ない一人である。

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 1958年、金城さんは2歳の時に辺野古へ移り住んだ。両親と姉、弟の5人家族。父は米軍普天間飛行場(宜野湾市)近くで日本料理店を経営していたが、知人の借金を背負わされ、店をたたんだ。再起を期した地が、キャンプ・シュワブができて間もない辺野古だった。


辺野古新基地建設反対の思いを語る金城さん
辺野古新基地建設反対の思いを語る金城さん

 当初、生計を支えたのは母だった。洋裁の腕を生かして布団店を営み、服も仕立てた。

 父は農業を始め、パイナップルを栽培したが、ここで金城さんは忘れられない体験をする。米兵2人がジープで駆け回り、収穫間近の畑を荒らした。

 「多感な中学生。(米軍が一時的に使用を認める)黙認耕作地の事情を知る由もなく、物言わぬ父を軽蔑しました。本来は自分たちの土地なのに、米軍に軍用地を使わせてもらっていると感謝する。おかしな話が今も沖縄では続いています」

 父は母に手を上げた。金城さんが高校生のころには、嫌がる母に米兵向けのバーを開店させた。

 60~70年代、辺野古の街はベトナム出征前の不安を紛らわせるべく、快楽に溺れる米兵であふれた。色とりどりのネオンがまたたき、嬌声(きょうせい)が響き、ドルが飛び交った。

 「米兵相手の仕事は金になると考えたんでしょう。母に無理強いする父が許せず、けんかが絶えませんでした」

 そして、悲劇は起きた。

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