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広島被爆73年 「奇跡の生存者」、生涯手記に

社会 神奈川新聞  2018年09月22日 09:35

夫の公照さん(左)と写る居森清子さん(居森公照さん提供)
夫の公照さん(左)と写る居森清子さん(居森公照さん提供)

 広島に投下された原爆の爆心地に最も近い国民学校で被爆するも、奇跡的に一命を取り留めた居森清子さんの生涯がこの夏、一冊の本にまとまった。移り住んだ横浜から継承に力を尽くし、2年前に82歳で亡くなった清子さんの夫、公照さん(83)が著した。一方、かつての学びやは市民らの願いで平和資料館に生まれ変わり開館20年を迎えた。核兵器廃絶への思いは形を変えながらも確かに脈打っている。

 「人生の初期に起き、大人になった頃には既に過去になったはずの戦争が、私たち夫婦の人生の後半にまでどんな影響を及ぼしたかを、今、みなさんにお伝えしたい」

 清子さんの被爆体験、香川県丸亀市での自身の戦争体験、そして夫婦で歩んできた戦後…。それらの出来事をつづり、公照さんが今年8月に出版した手記「もしも人生に戦争が起こったら」の冒頭には、こんな言葉が記されてある。

 清子さんが他界して2年余り。まぶたの裏に今も浮かぶのは、病魔と闘い続けながら自身の体験を伝えていた妻の姿という。

 被爆当時、清子さんは11歳だった。広島市の旧空鞘(そらざや)町で両親と弟の4人で暮らし、今の広島市立本川小学校(同市中区)にあたる本川国民学校に通っていた。

 1945年8月6日の朝は、近所の同級生と一緒に登校した。校舎1階の靴脱ぎ場に入ると突然真っ暗になったという。校庭に出ると、火の海になった街が目に飛び込んできた。

 仲良しだった同級生は黒焦げになり、眼前で息絶えた。火の粉から逃れるため半日余り、川に浸かって過ごしたが、雨は避けられなかった。「黒い雨」を浴びながら死体だらけの街を歩いた。

 爆心地から約350メートルほどにあった鉄筋コンクリート3階建ての校舎は、骨格のみを残して全焼。疎開せずにとどまっていた児童約400人と、校長ほか10人の教職員が死亡し、生き残ったのは教員1人、児童1人とされる。その子こそ清子さんだった。

 一人でも多く語り継いでいくことが奇跡的に助かった私の使命-。後障害に苦しみながらも、古希が近い頃から継承に力を傾けてきた清子さんは、公照さんによく話していたという。

 「奇跡の生存者」。広島の中心街にある本川小の屋上に出ると、なぜ清子さんがそう言われていたのかがよく分かる。原爆の投下目標とされた相生橋が目と鼻の先にある。

 「子どもたちが当時勉強し、今も子どもたちが勉強している。原爆を落とした米国は、ここに学校があるのを分かっていて殺戮(さつりく)兵器を落下させた。人道的に許されない」。本川小の吉岡克弥校長(62)が静かな怒りをたたえながら話す。

 被爆した旧校舎は1988年に平和資料館として再生されたが、建て替えの際に旧校舎を全て取り壊し、その場所に新校舎を建てるとの案も浮上したという。だが、本川小の教職員や地元住民らの「被爆の実相を語る上で絶対に必要」との思いから立ち消えになった。

 かつて教育勅語を暗唱させた国民学校は今、焼けた梁(はり)や柱、壁などをそのまま残し、教職員らで集めた被爆前後の写真など資料約60点を展示、原爆の残酷さを伝えている。

 本川小の子どもたちはもちろん、修学旅行生の平和学習に役立てられているほか、一般の見学も受け付けており、2017年度は2万7410人が訪れた。来館者は今年5月まで延べ約45万8千人に上り、右肩上がりを続けている。

 清子さんは戦後60年にあたる2005年に夫婦で、夫の公照さんは清子さんが亡くなった後の16年に本川小を訪れ、子どもたちに向けて話もした。本川小では10年ほど前から毎年12月、6年生が平和学習の一環で清子さんの経験を劇化したものの発表会を開いている。

 「清子さんのみならず、原爆の経験者は疎外感を覚え、差別を受ける中でも志を持って生きている。原爆の被害だけでなく、その人生についても知ってもらいたい」。吉岡校長は、本川小や地域で共有している思いをこう代弁する。

 家族を失い、戦後は広島県呉市の親戚宅などで暮らしていた清子さんが、仕事を求めて神奈川県内に移り住んだのは28歳のとき。公照さんとは、県内で出会い結婚した。

 「はきはきしていて、かわいい子だなと思った。一目ぼれだった」。公照さんは当時を振り返り、笑顔を浮かべる。清子さんは義母を実母のように慕い、長期休みには3人で旅行に出掛けるなどして過ごした。

 しかし、原爆は体をむしばんでいた。結婚してから10年ほどがたってから、清子さんは病に襲われた。

 40代のときに膵臓(すいぞう)に異常が見つかった。50代では甲状腺、60代では大腸や脳、70代では背中と、次々と癌(がん)を発症した。2013年からは体調を悪化させて自宅で寝たきりとなり、16年4月に帰らぬ人となった。

 「被爆者は良くなったように見えても、何十年たっても被害が続く。生物兵器や化学兵器は非人道的だからという理由で禁止になったのに、どうして原爆だけは禁止にならないのか」。公照さんはうつむく。

 清子さんは被爆者であることを神奈川に移住してからは明かさずに過ごしてきたが、2003年から証言活動を始め、10年間で100回以上証言した。「生かされた者」としての使命感だったという。

 一方で、痛み止めの薬は手放せなかった。4時間おきに摂取し、痛みに耐えられず証言をした翌日に入院することや、講話中に話せなくなり、公照さんが代役を務めることもあった。苦しむ清子さんの姿を、公照さんは52年間ずっと隣で見てきた。

 「被爆のこと、ずっと一緒にいて見てきた被爆者としての苦しみを伝え続けてほしい」。清子さんは遺言のように繰り返していた。

 公照さん自身は被爆者ではない。それでも、生涯を共に過ごしてきたからこそ伝えたい。遺志を継ぎ、神奈川県内や東京都内で登壇、被爆体験を妻に代わって語り続ける。

 著した手記はこう締めくくられている。「この世界から戦争がなくなり、すばらしい平和が一日も早く訪れますように。核兵器がこの世界からなくなりますようにと、強く強く願っています」

 その言葉は、「広島原爆の日」に合わせて本川小で登校日の夜に執り行われている慰霊祭の願いとも重なっている。灯が揺らめく約420個の灯籠には、児童のこんなメッセージが記されていた。

 「核兵器が世の中からなくなり平和になりますように」「戦争が世界中からなくなってほしい」

              ◇

 公照さんが出版した手記は「もしも人生に戦争が起こったら-ヒロシマを知るある夫婦の願い」(いのちのことば社)。1512円。


本川小学校の歴史などについて説明する吉岡克弥校長=7月、広島市中区
本川小学校の歴史などについて説明する吉岡克弥校長=7月、広島市中区

本川小学校の屋上からは相生橋や原爆ドームが間近に見える=8月、広島市中区
本川小学校の屋上からは相生橋や原爆ドームが間近に見える=8月、広島市中区

本川小学校の平和資料館。原爆投下後の町を示す大きな模型などが置かれ、柱や梁は当時のまま残されている=8月、広島市中区
本川小学校の平和資料館。原爆投下後の町を示す大きな模型などが置かれ、柱や梁は当時のまま残されている=8月、広島市中区

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