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広島被爆73年(4)体験を継ぐ者たち 「核と人間共存できない」

時代の正体 神奈川新聞  2018年08月23日 10:17

被爆体験伝承者として平和記念資料館で講話を行う楢原泰一さん=4日、広島市中区
被爆体験伝承者として平和記念資料館で講話を行う楢原泰一さん=4日、広島市中区

 「山の日」「海の日」「ハムの日」「終戦の日」「長野に原爆が落ちた日」「マジで分かんない」

 神奈川の県西地域で7月下旬、記者は10代の中高生らに8月6日と9日が何の日か尋ね歩いた。

 正しく回答できたのは50人中8人。答えを伝えると「ああ、そうだった」「笑い事じゃなかった」といった反応が返ってきたが、きょとんとした表情を崩さない生徒らもいた。

 14歳のときに被爆した梶本淑子さん(87)=広島市西区=も、若者の言葉に二の句が継げなかった経験がある。

 昨年東京都内で証言した際、原爆はどの国が使ったのかを問うと20代の青年が「北朝鮮」と返してきた。米国と教えると「なんで」と笑い、「アメリカとこんなに仲がいいのに」とも言った。がく然としながら帰郷したのを覚えている。

 一方、記者が広島市内で地元の10代を対象にし、同じように聞いてみると、50人中48人が正答した。

 ただ広島でも若者の原爆に関する知識などの低下は課題となっている。2011年に公表された広島市教育委員会の調査で、広島への原爆投下の年月日時(1945年8月6日午前8時15分)を正確に答えられたのは小学生が33%、中学生56%、高校生66%にとどまった。

 市教委はその調査以降、平和教育を再検討し、プログラムの策定に力を入れた。16年に公表された調査の正答率は小中高とも7割以上に回復したが、被爆者の高齢化が進み、平和に対する意識の希薄化を危惧する声は根強い。

 若者の意識の低下が懸念される中、首都圏で原爆の恐ろしさなどを伝えていこうという人もいる。

 「6人家族で、当時8歳だった岡田さんは国民学校3年生でした」

 8月上旬、平和記念資料館(同市中区)の一室。被爆者から体験を聞き取った上で次世代に語り継ぐ「被爆体験伝承者」の1人、東京都杉並区の会社員楢原泰一さん(43)は講話の中で、8歳で被爆した岡田恵美子さん(81)=同市東区=の被爆体験を紹介していた。

 市平和推進課によると、伝承者の養成事業は2012年度から開始。被爆者の思いを後世に伝えるため、3年ほどの研修を設けるなどして伝承者を養成している。

 今年7月現在で研修を終え、活動しているのは117人、うち104人が広島県内に住む。楢原さんのような県外の人は珍しい。

 きっかけは、約25年前の大学1年生のときのことだ。全国大学生活協同組合連合会が主催する平和学習で広島市を訪れた。

 その中で被爆者の男性が証言した。当時13歳。爆心地から約1・8キロの場所で被爆し、その後にひどい差別や偏見に遭った。

 「被爆したときはつらかった。でもそれよりもその後、今まで生きてきたことがとてもつらかった」。そんな言葉に、これまで自身にあった「パワーバランスの安定には核兵器があってもいいんじゃないか」などの考えは吹き飛んだ。

 「私たちの証言、体験、被爆の実相を伝えていってほしい」。証言の最後に男性からこう言われ「自分にできることはします」と約束した。以来、毎年8月6日は広島を訪れるようになり、09年9月からは関連施設を案内、解説する「ヒロシマピースボランティア」も務めている。

 楢原さんは、毎月東京-広島を行き来する。伝承者としては活動4年目。東京都国立市が15年に始めた伝承者育成事業でも講話を開催し、現在はアドバイザーを担っている。

 「核兵器、戦争があることがいかに不幸なことかを伝えたいし、それらがなくなることが被爆者の一番の願い。一日も早くなくなるよう伝えていかなければ、出会ったたくさんの被爆者に顔向けできない」

 川崎市多摩区の森川聖詩さん(64)は今、広島市の伝承者養成事業の研修を受けている。

 市平和推進課によると、研修中の候補生は今年7月現在292人で、神奈川県内在住者は2人。森川さんは篠田恵さん(86)=同市中区=らの伝承者を目指している。


被爆体験について語る篠田恵さん(右)の話に耳を傾ける森川聖詩さん(中央)ら=7日、広島市中区
被爆体験について語る篠田恵さん(右)の話に耳を傾ける森川聖詩さん(中央)ら=7日、広島市中区

 73年前、篠田さんは自宅で被爆した。「建物疎開」の作業で毎日くたくたで、投下された日は寝坊し、起きたのは午前7時半だったという。

 「先生に怒られるし、電車に乗っていくのは大変だな」と思い、自宅で10歳離れた弟に折り紙を見せていると、隣家の女性が「石うすを貸してもらえんかね」と訪ねてきた。

 母が出迎え、おわんに入れた豆を一粒ずつ食べていた弟が「おばちゃんも食べんちゃい」と豆を差し出した瞬間、ぶわーっと炎が家の中に入ってきたという。篠田さんは7人暮らしだったが、姉を亡くし、弟もその年の10月から下痢に苦しみ、程なくして母に抱かれて他界した。

 「かわいい弟の命を原爆が奪っていった、という篠田さんの思いが感じられた」。体験を聞いてそう語る森川さんは、被爆2世という立場からも体験を継承しようとしている。

 広島中央放送局(現在のNHK広島放送局)の職員だった森川さんの父は局舎内で被爆。森川さんが生まれて間もなく、神奈川県内に移り住んだ。被爆者の生活補償や核兵器廃絶を訴える被爆者運動に関わってきた父の姿を見て育ち、食卓でも当たり前のように当時の体験は話題に上った。

 川崎市内の小学校に通っていた4年生のときだ。「みなさんの中にお父さんかお母さんが広島か長崎で被爆した人はいますか」という教師の問い掛けに、手を挙げた。数日後からクラスメートから「うつる」「長生きできないんだってね」「手が小さいのは放射能のせいだよな」といった心ない言葉を浴びせられるようになった。

 その後も、就職活動の面接で履歴書の本籍記入欄に書いた「広島市中区」に言及されることが不自然なくらいの頻度であった。差別を受けて結婚できないのではないかという不安が結婚するまで絶えずつきまとい、身体的にも傷が治りにくく、よく化膿するという。

 偏見、差別、周囲の無理解、そして体の不調。核兵器は自分の世代まで影響した。伝承者としてデビューしたら、篠田さんが大切にする言葉を講話で紹介したいと考えている。

 「人の命は地球より重い。核と人間は共存できない。憎しみの心の中から平和は生まれない」


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