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平和つなぐ
広島被爆73年(1)女学生が走らせた路面電車 「戦争がなきゃ一番いい」

時代の正体 神奈川新聞  2018年08月20日 11:19

被爆当時を振り返る笹口里子さん=4日、広島市西区
被爆当時を振り返る笹口里子さん=4日、広島市西区

 鎮魂と祈りに包まれる広島の8月6日は、実は騒がしい。デモや集会が開かれ、街中には抗議や訴えの声が盛んに飛ぶ。

 ただ平和記念公園(広島市中区)の原爆慰霊碑へ歩を進めるにつれ、侵してはならない空気が濃くなっていく。原爆投下から73年となった今年の6日朝もそれは変わらなかった。

 気温が既に30度を超える中、原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に集まったのは、およそ5万人。全長約3メートル、重さ約4トンの原子爆弾「リトルボーイ」が落とされた時刻に合わせ、黙とうがささげられる。喪服姿の参列者は扇子をあおいでいた手を止め、目を閉じたり、雲一つない空を仰ぎ見たりした。

 「73年前、きょうと同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました。皆さん、あなたや大切な家族がそこにいたらと想像しながら聞いてください。8時15分、目もくらむ一瞬の閃光(せんこう)。摂氏100万度を超える火の球からの強烈な放射線と熱線、そして猛烈な爆風。立ち昇ったきのこ雲の下で何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました」

 松井一実市長が核兵器廃絶と世界恒久平和への誓いで今年の平和宣言を結んだころ、同市西区の自宅で笹口里子さん(87)は、平和記念式典の様子をテレビで眺めていた。


広島電鉄の「家政女学校」時代の笹口里子さん(左)。頭には車掌であることを示すはちまきを巻いている(笹口さん提供)
広島電鉄の「家政女学校」時代の笹口里子さん(左)。頭には車掌であることを示すはちまきを巻いている(笹口さん提供)

 原爆ドームの前では、がたんごとんと音を立てながら路面電車が走る。街並みは別として、その光景は73年前と変わらなかったが、当時は10代の女学生も運転士や車掌を務めていた。

 笹口さんもその一人。テレビの映像に「時代が変わったね」とつぶやきながらも、記憶は自然とあの頃に戻っていった。

 1943年、路面電車を展開する広島電鉄(同市中区)は、出征による人手不足に苦しんでいた。運転士や車掌の確保のため「家政女学校」を開校。食事付きで勉強ができ、給料も与えられる学校には、地方の農村や漁村から多くの少女が集まった。

 島根県で七女として生まれた笹口さんは45年4月、先に入学していた姉を追うように門をくぐった。幼いころに父を亡くし、稲作を続けていた母を「楽にさせたい」と思っていた。

 「乗車券をお持ちでない方はございませんか。お持ちでない方はお買い求め願います」。お釣りの現金を入れたポーチを腰に付けて乗客に呼び掛け、パンチで切符に穴を開けていく。言葉遣いなどを勉強してから1週間ほどで、路面電車での仕事が始まった。

 半日は勤務、半日は学校。2段ベッドの並ぶ寮の相部屋で暮らした。ほぼ毎食が大豆かすの混ぜご飯。3年生の姉が運転士として電車を走らせ、笹口さんが車掌を務めた日もあった。

 休みの日は、姉と一緒に映画を見に行くなどして過ごした。貧しくとも毎日が充実していた。

 8月6日は午後からの勤務だった。朝食を知らせる鐘を聞き、箸箱を持って急ぎ足で食堂へ。いつもの大豆かす入りのご飯を食べていたら、ぱーっと明るくなり青白い光が見えた。すぐに気を失った。

 爆心地から約2キロ。目を開けたら腰が痛く、茶碗や漬物が散らばっている。相部屋の友人と避難先へ向かうと、たくさんの人が列をなしていた。

 やけどを負って顔が真っ赤になった人、焼けただれた手を前に出しながらそぞろ歩く人…。倒れていた何頭もの馬が膨れ上がり、川には水面が見えないほど死体が浮いていた。

 避難先で遺体を焼くから手伝ってくれと言われた。

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