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平和つなぐ 戦後73年の夏
「命ある限り伝えたい」 広島で被爆の松本正さん

社会 神奈川新聞  2018年08月19日 02:00

自作の資料を使って被爆体験を語る松本さん。月に数回、証言している=横浜市中区
自作の資料を使って被爆体験を語る松本さん。月に数回、証言している=横浜市中区

 後ろめたさを抱えた人生だった。

 助けを懇願する人々を置き去りにした。瀕死(ひんし)の弟の元に駆け付けてやれなかった。そして、自分は無傷で生き残ってしまった。

 横浜市神奈川区の松本正さん(87)は14歳の時、広島で被爆し、家族10人を失った。「横浜市原爆被災者の会」の事務局長を務めるが、長く証言を避けてきた。語る資格はないとの思いからだった。

 「犠牲者に申し訳ない。無傷なのに誰も助けずに逃げた。僕はずるい被爆者」

少しずつ変化した日常



 生まれ育った広島市は、気候が穏やかで美しい街だった。舟運で栄え、鉄筋コンクリート建ての百貨店や映画館、カフェが立ち並ぶモダンな佇(たたず)まいが誇らしかった。

 娯楽の少ない戦時下。例えば軍歌の歌詞を逆さまにして歌った。レコードを逆回しするように意味をなさない歌詞を口ずさむ。軍靴の音が聞こえながらも、工夫した暮らしの中には笑いがあった。

 やがて、日常が少しずつ変化した。子ども心に肌身で感じ、市中心部にあった自宅は日本軍の仮宿泊所となった。


敷地内に弓道場があった自宅は1938年に、日本軍の仮宿泊所になった
敷地内に弓道場があった自宅は1938年に、日本軍の仮宿泊所になった


 1945年3月、嫁いだ姉や学徒動員された兄も交え、自宅できょうだい6人が久しぶりに顔をそろえた。母を囲んでレンズを見詰める。3世代15人が1枚の写真に収まった5カ月後の8月6日、一発の新型爆弾がすべてを破壊した。

 それから73年。手元に残る15人の笑顔に松本さんが視線を落とす。

 「これが最後の家族写真になってしまった」


最後の家族写真を収めたアルバムには、故郷を姿を変えたキノコ雲のイラストを描いた
最後の家族写真を収めたアルバムには、故郷を姿を変えたキノコ雲のイラストを描いた


 その日は、雲一つない美しい朝だった。米軍機が青空に引く飛行機雲はいつしか見慣れた存在となり、空襲警報も解除されていた。B29爆撃機が迫っていると知るよしもなかった。

 午前8時15分、学徒動員された松本さんは爆心地から3・5キロに位置する工場で被爆した。「突然、閃光(せんこう)が走り、腹にズシンと一撃もらったような衝撃があった」。その一発で、年末までに14万人の命が奪われた。

 何が起きたのか分からない。市中心部に目を向けると、2つの“太陽”が燃えていた。赤、橙(だいだい)、緑、金、銀…。噴き上がる煙に恐怖し、防空壕(ごう)に飛び込んだ。轟音(ごうおん)がやみ、恐る恐る這(は)い出ると、5階建ての工場は骨組みだけになっていた。


原爆投下時に「2つの
原爆投下時に「2つの"太陽"が見えた」と語る


 溶けた皮膚が肩から垂れ下がった半裸の人、目玉が飛び出した人が街にあふれる。「水…」と差し出される手におののき、後ずさりした。「ごめんなさい」。心の内で謝りながら熱風に追い立てられるように、母の元へ向かった。


 うずたかく積まれた遺体を横目に、うめき声を聞きながら線路を歩く。人が燃える異臭が鼻を突く中、ねっとりとした黒い雨が降り注いだ。乗り込んだ列車では血の臭いをかぎながらうずくまる。「なんで無傷なんだ」と怒鳴られ、さらに小さく身を縮めた。

 母に会うと、2歳下の弟が全身にやけどを負い、救護所に運び込まれたと聞かされた。

 「僕は結局、間に合わなかった。弟は痛みに耐え、『お兄ちゃんがきっと助けに来てくれる』と僕を呼びながら息を引き取っていました」

 前日、姉宅を訪ねるからと、1人で駅に向かった弟の後ろ姿が忘れられない。兄を信じて待ち続けた思いに応えられなかった。「心細い思いをさせてしまった」と今も悔いる。

生き残ったのは運命のいたずら


 名古屋に嫁いでいた上の姉は子ども5人を守るため疎開してきたが、幼子たちと食卓を囲んだ姿で絶命した。宝塚歌劇に憧れていた下の姉は、その夢を奪われた。松本さんは身体が弱く工場勤務となったが、爆心地近くで重労働に従事した同級生らは即死した。

 「僕が生き残ったのは運命のいたずら」

 以来、重い十字架を背負った人生を歩んだ。

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 子どもの頃からの夢を追いかけたいと、通信社を4年で退社し、デザイン学校に入り直した。再就職したディスプレー会社では写真撮影のために世界を雄飛し、デザイン業で独立する夢もかなえた。最愛の女性と結婚し、一人息子を授かった。


通信社に勤務していたころの松本さん
通信社に勤務していたころの松本さん


 幸せだったが、結婚した息子に子どもができないことが不思議だった。ある日、妻に尋ね、その告白に言葉を失った。

 相手方の実家に出向いた際、「被爆が遺伝して肢体の不自由な子どもができたら困る」と言われ、出産しないことを条件に結婚の許しを得ていた。

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