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【戦後73年】日米に翻弄された逗子の村落 奪われた故郷

話題 神奈川新聞  2018年08月15日 02:00

旧柏原村の自宅跡地に立つ鈴木さん =池子の森自然公園内
旧柏原村の自宅跡地に立つ鈴木さん =池子の森自然公園内

 樹木が緑濃く生い茂り、貴重な生き物が息づく「池子の森自然公園」(逗子市池子)。かつてここに、15戸余りが軒を連ねる、小さな村があった。

 住民は寄り添うように暮らし、わら草履で駆け回る子どもたちの笑い声が響いていた。

 そんな住民の平穏な営みを、日本と米国という二つの国が、戦争という名の下に、強制的に奪った。そして今も、全ては市民の手に戻っていない。

 鈴木久彌(きゅうや)さん(83)=逗子市久木=は1935年4月、久木柏原地区(旧・柏原村)で生を受けた。両親と祖母、弟2人の6人暮らし。自宅は瓦屋根が目を引いた。

 「ドジョウやウナギを川で捕まえた」「電話がない村では、子どもが伝達役。用事を伝えに、近所の家を走り回っていたよ」。鈴木さんは当時を思い出し、懐かしさに目を細める。住民同士、心を通わせ、「全体が一軒の家のようだった」

 だが、平穏な日々は長く続かなかった。

 6歳だった41年8月。日本海軍最大の軍港とされた横須賀を中心に、三浦半島一帯が軍事色に染まる中、住民が逗子町役場に集められた。

 海軍が弾薬庫を造営するため、4カ月以内に移転するよう命じられた。思い出の詰まった我が家を自らの手で壊し、リヤカーや馬車に家財道具などを乗せた。秋雨でぬかるむ1本道を、住民が競い合うように行き、故郷を離れた。

 「怒りや悲しみはなかった」と鈴木さん。「個人の意見を言える世の中ではなかった。軍の命令は絶対。受け入れるしかなかった」。住民が退去した後、海軍は山を削り、田畑を埋め立て、「東洋一」と言われる巨大弾薬庫を完成させた。


鈴木さんの生家(写真右)を写した唯一の1枚。瓦屋根が目を引く自宅は、豊かな自然に囲まれていた(鈴木さん提供)
鈴木さんの生家(写真右)を写した唯一の1枚。瓦屋根が目を引く自宅は、豊かな自然に囲まれていた(鈴木さん提供)

 鈴木さんの脳裏には、6歳まで過ごした久木柏原地区の風景が、今も焼き付いている。

 「自宅に枯れ山水の庭があって、近所の子どもたちが随分遊びに来たよ」

 「あっちには、大きな池が2カ所あったな」。そう言って、鈴木さんが見つめる先には、市民の立ち入りを禁じる米軍のゲートがあった。

 鈴木さんのふるさとは戦後、今度は日米によって翻弄(ほんろう)された。

 海軍が造った巨大弾薬庫を、連合国軍が接収。在日米軍が引き継ぎ、その後の戦争でも使用を続けた。1947年11月には、大規模な爆発事故が起きた。日本人1人が死亡、7人が重軽傷を負い、多くの山林が焼け落ちた。やがて全面返還が市是となった。

 だが81年6月、日米は使われなくなった弾薬庫に、米軍住宅を建設することで合意。これ以上豊かな自然を壊されたくないと市民らが計画に反対し、市を二分するまでに。コミュニティーは壊された。その記憶は今もまだ残る。

 2014年6月、池子住宅地区内の土地約40ヘクタールを共同使用することが日米で承認され、その後、市民が週末などに立ち入ることができるようにはなった。

 今は公園に姿を変えた故郷に16年春、鈴木さんは足を踏み入れた。当時の面影はない。それでも「また戻れるとは思ってもいなかった。夢のようだった」と喜ぶ。

 生家跡地のすぐそこには、米軍のゲート。旧・柏原村の半分は立ち入り禁止エリアの中にあり、墓参りすら自由にできない住民が今もいる。

 「仕方ないこと。それが『敗戦』ということ」。決して「終戦」などではない。鈴木さんはそう受け止め、続ける。「戦争のために犠牲を払ったのは、柏原だけじゃないのだから」

 同じように軍の施設拡張でふるさとを追われた一家、1枚の召集令状で命を落とした若者や家族を失った女性や子ども、戦後の混乱期に苦労を重ねた人々…。形は違えど、戦争は市井の人々に悲劇をもたらした。二度と繰り返さないために、だからこそ旧・柏原村の歩みを語り継ぐ決意だ。

 「池子の森に人々の営みがあったことを、忘れないでほしい。戦争のような、人をいじめる世の中に、二度としてはいけない。それが真の願いだよ」


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