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平和つなぐ 戦後73年の夏
被爆遺体運び続け、感情まひ 白血病の83歳、核廃絶へ署名活動

社会 神奈川新聞  2018年08月09日 02:00

「被爆者として声を上げ続けていく」と語る神宮さん=藤沢市
「被爆者として声を上げ続けていく」と語る神宮さん=藤沢市

 幾度となく、自らの体験を口にしてきた。それでも口調は重くなった。

 「私は一度、人間の心を失った」

 神宮(しんぐう)弘道さん(83)=藤沢市=はそう言って、目を伏せた。

 1945年8月9日。神宮さんは長崎市旭町の自宅にいた。

 「家の縁側でおじき(叔父)と将棋を指していた。突然、将棋盤が真っ青に光り、体が飛ばされた」

 自宅は爆心地から2キロほど。目立ったけがはなかったが、爆風で自宅は倒壊した。数日後、向かった市内の小学校の講堂には瀕死(ひんし)のやけどを負った人々が転がっていた。

 「『兄ちゃん、背中がかゆい。かいてくれ』と言われ、背中を見たら真っ白になっている。やけどの痕に5ミリほどのウジ虫が背中にびっしり、と。井戸水でぬらした手拭いで軽くたたいてあげるんだけど、すぐに息を引き取ってね」

 毎日、遺体を荷車に積み、運んだ。当時、小学5年生。「そのうち悲しい、怖いといった感情はなくなった」

 そんなとき、ある親子に出会った。

 「母親は赤ちゃんをかばったように死んでいた。赤ちゃんは死んだ母にしがみつき、乳房を吸っていた。涙が出たよ。こんな思い、もう二度とごめんだって。人間の気持ちを取り戻した」


「死んだ母親にしがみつき、乳房を吸う赤ちゃんを見たときは涙が出た」と話す神宮さん=藤沢市
「死んだ母親にしがみつき、乳房を吸う赤ちゃんを見たときは涙が出た」と話す神宮さん=藤沢市

 母は原爆で亡くなり、その8日前に造船所で働いていた父は空襲の犠牲になった。神宮さんは姉と2人、親戚の家で育った。高校卒業後に上京。アルバイトをしながら夜間大学に通った。就職の際、姉夫婦から紹介されて被爆者健康手帳を取得した。

 自らの体験を語るようになったのは、退職後、還暦を過ぎた頃だった。藤沢市内の被爆者でつくる「藤沢市原爆被災者の会」の会員として、市内の小中学校などで講演し、数年前からは同会の会長も務める。

 会員数は約80人だが、最近は会合に参加する人は数人という。年を重ねて出歩くのが難しくなり、ここ数年は多くの被爆者がこの世を去った。

 「ある人は朝に風呂場で突然倒れ、ある人は作業していた畑で亡くなった。原因が分からず、司法解剖をすると急性白血病だったことが判明する。核兵器は一瞬にして命を奪うだけではない。何十年たった今も、被爆者の体をむしばみ、命を奪っている」

 昨年7月、核兵器の使用や保有の禁止を初めて明文化し、国連で採択された核兵器禁止条約の前文には「ヒバクシャにもたらされた受け入れ難い苦しみに留意する」と明記された。


「核兵器禁止条約の発効を目指し、署名活動を続けていく」と話す神宮さん=藤沢市
「核兵器禁止条約の発効を目指し、署名活動を続けていく」と話す神宮さん=藤沢市

 神宮さんも昨年、白血病に罹患(りかん)していることが分かった。だが、今も毎月、藤沢市内の街頭に立ち、核廃絶のための署名活動を続ける。

 条約の発効には50カ国・地域の批准が必要とされるが、日本政府は批准に否定的な姿勢を崩していない。

 「被爆者たちが何十年と声を上げたことで賛同者が世界に広がり、条約採択につながった。これからも足元で活動を続けて仲間を増やし、私たちの声を伝えていくしかない」


核兵器廃絶を求める署名活動は県内各地で行われている=藤沢市
核兵器廃絶を求める署名活動は県内各地で行われている=藤沢市

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