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平和つなぐ 戦後73年の夏
「広島の悲劇忘れないで」 相模原の遺族、平和記念式典に参列

社会 神奈川新聞  2018年08月07日 02:00

平和記念式典で都道府県遺族代表として原爆死没者慰霊碑に献花する丸山進さん(左)=6日午前、広島市の平和記念公園(広島市提供)
平和記念式典で都道府県遺族代表として原爆死没者慰霊碑に献花する丸山進さん(左)=6日午前、広島市の平和記念公園(広島市提供)

平和記念式典で都道府県遺族代表として原爆死没者慰霊碑に献花する丸山進さん(左)=6日午前、広島市の平和記念公園(広島市提供)
平和記念式典で都道府県遺族代表として原爆死没者慰霊碑に献花する丸山進さん(左)=6日午前、広島市の平和記念公園(広島市提供)

 広島市中区で6日に営まれた平和記念式典に、丸山進さん(78)=相模原市南区=が都道府県遺族代表として参列した。「広島を忘れないでほしい」。記憶を伝えることへの使命感をますます強くしている。

    ◇

 被爆したのは5歳9カ月だった。当初は神戸にいたが空襲が激しくなり家財が焼失して、両親の出身地で親戚がたくさんいた広島市に来た。祖母、父、兄、姉2人の6人暮らしで、爆心地から約2キロのところだった。

 当日は朝8時ごろに食事が終わり、いつものようにふらっと近くの空き地に遊びに出た。それから間もなく、紫がかった、目がくらむような光と「どーん」という音がした。周りがものすごく明るくなって、吹き飛ばされて気を失った。

 気が付くと、周りが真っ暗で夕暮れのようだった。半ズボンで、足の何カ所かにガラスの破片が刺さっていた。今も傷が残っている。

 起きて家を探したが、周りの家がほとんど倒れていて、大して距離は離れていないはずなのに家を見つけることができなかった。何が何だか分からず、まるで別世界だった。

 たくさん倒れている人がいた。動かない人も、うめき声を上げている人も。おばあちゃん子だったので「おばあちゃん、おばあちゃん」と泣き叫んだと思う。近所の友人の父親に保護された。

 20キロくらい離れた場所に疎開していた兄と、その兄を訪ねていた父だけが直爆(直接被爆)を免れた。上の姉と祖母は家の中に閉じ込められたけど、幸い脱出できた。下の姉の生代(いくよ)は12歳で、勤労奉仕に出ていて爆心地から1キロ以内の場所で作業していた。兄の疎開先から戻った父が翌日探しに行って、性別の区別が付かない遺体の中を一所懸命探したが、見つからなかった。


原爆投下により亡くなった丸山生代さんの幼少期(丸山進さん提供)
原爆投下により亡くなった丸山生代さんの幼少期(丸山進さん提供)

 その後の火災で家が焼失して、金属品以外は一切合切なくなった。当時の写真は、親戚が持っていた2枚だけ。下の姉とは、幼かったこともあり、本当に思い出がない。

 祖母は1カ月ほどして亡くなった。父が炭鉱の仕事を始め、その年の暮れに長崎県佐世保市に移った。それからは親もあまり当時のことをしゃべらなかった。周りも自分が被爆者だと知らなかったのではないか。高校卒業後、20歳の頃に東京に出てきて、22歳から相模原市内で働いている。

 父と兄と上の姉も死んでしまった。きょうは下の姉だけでなく、全員含めて「また来たよ。安らかに」と慰霊した。広島に来ると、当時のことを思い出すし、今広島が立派な町になったことを感慨深く感じる。

 広島を忘れないでほしい。被爆者のほとんどがいなくなりつつある。そういう意味で、現実に広島と長崎で悲劇があったのだと、少しでも若い人たちに伝えたい。平和は黙って与えられるものではない。体験を伝え続け、再びこういうことが起こらないようにしたい。

    ◇

 まるやま・すすむ 1939年神戸市生まれ。2005年ごろから継承活動などに注力する。「相模原原爆被災者の会」会長で、今年4月からは「県原爆被災者の会」会長も務める。


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