1. ホーム
  2. 社会
  3. 91歳、初めて語るヒロシマ 入市被爆「遺体担ぎ続けた」

平和つなぐ 戦後73年の夏
91歳、初めて語るヒロシマ 入市被爆「遺体担ぎ続けた」

社会 神奈川新聞  2018年08月06日 02:00

広島での被爆体験を語る伊達さん=鎌倉市
広島での被爆体験を語る伊達さん=鎌倉市

広島での被爆体験を語る伊達さん=鎌倉市
広島での被爆体験を語る伊達さん=鎌倉市

 隠してきたわけではなかった。ただ、好んで人前に出る性格ではない。国鉄マンとして仕事に邁進(まいしん)し、忙しくもあった。鎌倉市の伊達昭二さん(91)は被爆体験を披瀝することはなかった。

 だが、戦後73年のこの夏、初めて大勢の前で広島を語る。ひたすら遺体を担ぎ続けたあの日々を-。

   ■■■

 1945年8月6日、当時18歳の伊達さんは広島県内にあった陸軍の教育隊で特別幹部候補生を指導していた。昼ごろ、「広島市内に『ピカドン』という新型爆弾が落とされ、壊滅状態になった。救護に行くように」と通達があった。

 翌7日朝、生徒約50人を連れて広島駅に降り立つ。「辺り一面の焼け野原。建物はつぶれ、煙が立ちこめたような悪臭が漂っていた」。部隊本部からは生存者を救護所に搬送し、その後は遺体を練兵場に運んで並べるよう指示された。

 道すがら、数多(あまた)の遺体を見たが、特に子どもばかりが記憶に残る。多くがへそから腸が飛び出していた。救護所で聞くと「子どものへそはまだ柔らかく、腸が出てしまったのではないか」。その苦痛を思い、胸が痛んだ。

 練兵場では20代半ばとおぼしき女性から涙ながらに懇願された。「3歳の息子だと思う遺体を見つけたが、連れて帰れない。火葬してほしい」。周囲には有り余るほどの木材が転がっている。体が小さい子どもなら火葬できると考えた。

 だが、腹部がどうしても焼け残る。それでも女性は廃虚の中で拾ってきた土瓶に小さなお骨を入れ、亡き息子に語り掛けた。「良かったね、これで帰れるね」

   ■■■

 伊達さんは原爆投下後に被爆地入りした「入市被爆者」の1人。玉音放送で敗戦を知った15日まで広島市内にとどまり、阿鼻(あび)叫喚のがれきの山から人々を助け出し、遺体を運び続けた。残留放射線などで被爆したと考えられ、投下後2週間以内に爆心から約2キロ以内の区域に立ち入った人は被爆者健康手帳が交付される。伊達さんも85年に交付を受けた。

 長く健康被害を実感することはなかったが、50歳のころだった。握力が急に弱まり、趣味のゴルフをプレー中にドライバーがすっぽ抜けるようになった。診断の結果、被爆から長時間経過後に発症する晩発性の後遺症の恐れがあった。

 子どもは娘と息子の2人。幼い頃の息子は身体が弱く、季節の変わり目には体調を崩した。「病院に連れて行くと『また来たの』と声を掛けられ、医師や看護師に名前を覚えられてしまうほどだった」。特に妻(86)が被爆の影響を懸念した。

 影響の有無は、あるなら症状や発症時期は-。疑問が頭をもたげ、分からないことで不安を抱え続けるのもまた、苦しかった。

   ■■■

 「戦争終結のためにやむを得なかった」と原爆投下を正当化してきた米国の主張にいら立つ。死屍(しし)累々の地獄絵図を思い起こすとき、決して看過できない詭弁(きべん)だ。一方、米国の核の傘に頼り、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約の署名を拒否した日本の姿勢にも失望を隠さない。「被爆国として率先して非核化の流れをつくってほしい。早急な署名を」と切望する。

 被爆者の高齢化は待ったなしだ。周囲の語り部も相次いで鬼籍に入り、証言を請われた。

 原爆・核兵器は無差別に人を殺傷し、影響も長期に及ぶ。年齢を重ねた今、「証言は最初で最後になるかもしれない。それでも、悲劇を繰り返さないための一助になれば」。被爆地に立った一人として、市井の人々に犠牲を強いる核兵器の廃絶と不拡散を足元から訴える。
 
  ◇

 戦後73年の夏。戦争を伝え、平和をつなぐ人々を訪ねた。

横浜で原爆と人間展
 「原爆と人間展」が24~27日、横浜駅東口の新都市プラザ(横浜市西区)で開かれる。26日正午からは伊達さんが体験を語る。問い合わせは、県生活協同組合連合会電話045(473)1031。


シェアする