1. ホーム
  2. 話題
  3. 【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<12>鎌倉幕府滅亡 敵味方分かれ四分五裂

【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<12>鎌倉幕府滅亡 敵味方分かれ四分五裂

話題 神奈川新聞  2018年07月03日 11:43

渋谷一族の菩提寺と伝わる長泉寺 =綾瀬市早川
渋谷一族の菩提寺と伝わる長泉寺 =綾瀬市早川

 後醍醐天皇は1324(元亨4)年に次いで1331(元徳3)年にも討幕の計画を立てた。この計画を無謀と見た吉田定房の密告で、またも幕府の知るところとなった。5月、幕府は天皇近臣の日野俊基、文観、円観らを逮捕した。元弘の変である。

 天皇は8月、三種の神器を奉じて京都を脱出。笠置山に入り、近隣の武士に討幕を呼び掛けた。これに対して、鎌倉幕府は軍勢を派遣した。「光明寺残篇」によると、その中に渋谷遠江権守一族がいた。翌月、楠木正成が河内国(大阪府)の赤坂城に挙兵した。幕府軍は四手に分けて赤坂城を攻めた。渋谷遠江権守は山崎から天王寺を進む軍勢だった。天皇は逮捕されて翌年3月、隠岐に流罪となった。

 1332(元弘2、正慶元)年11月、皇子・尊雲が還俗(げんぞく)して大塔宮護良親王と名乗り、吉野に挙兵したことから、反幕府運動が急展開。正成が千早城に再挙。天皇も1333(元弘3、正慶2)年閏2月に隠岐を脱出、船上山に旗を揚げ、諸国に朝敵追討の綸旨(りんじ)を発した。「太平記」によると、美作国(岡山県)の渋谷一族が天皇に従っていた。

 幕府に反旗を翻した足利高氏(尊氏)が5月7日、赤松円心らとともに六波羅探題を攻め落とした。新田義貞が8日に上野国・生品(いくしな)明神に挙兵。「太平記」によると、三浦義勝は松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷を率いて新田方に参陣。義貞の軍勢が鎌倉になだれ込んだのは21日だった。鎌倉幕府の終焉(しゅうえん)だった。

 「太平記」では、義貞は稲村ケ崎の波打ち際から鎌倉に進入したとする。新田軍は波打ち際ではなく、極楽寺坂と稲村ケ崎の間にある霊山の幕府軍を突破したとの記録があり、説得力を持っている。

 「鎌倉幕府滅亡のおり、渋谷氏は、西国派遣軍の北条氏方の軍勢にあり、鎌倉に残った軍勢は土壇場で新田方に転じ、西国美作に土着した渋谷氏は後醍醐天皇の軍勢に加わるように四分五裂した状態だった」。「綾瀬市史」は、こう書く。

 =おわり


シェアする