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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<11>宝治合戦 戦功で莫大な所領獲得

話題 神奈川新聞  2018年07月02日 13:24

早川城跡(城山公園)に立つ東郷氏祖先の碑
早川城跡(城山公園)に立つ東郷氏祖先の碑

 北条時頼は1246(寛元4)年3月23日、兄・経時の病状悪化を受けて開かれた「深秘の御沙汰(秘密会議)」で執権に就任。以降、北条氏の家督(得宗)の地位は時頼の系統に移った。時頼は「宮騒動」を乗り切ると、三浦一族滅亡作戦に着手した。

 時頼は1247(宝治元)年6月5日、和平の使者として平盛綱を三浦泰村邸に送った。泰村に対する心理作戦である。盛綱が帰った後、泰村は妻が用意した「湯漬(ゆづけ)」を口にした。一口で「反吐(へど)」を吐いてしまった。緊張は極度に達していた。直後、時頼の生母・松下禅尼の父・安達景盛が息子たちに「ただ運を天に任せ、今朝すべからく雌雄を決すべし」と三浦氏攻撃を命令した。「宝治合戦」である。時頼は、弟・時定を大手の大将として三浦邸の攻撃に当たらせた。時頼と景盛の連携作戦だった。攻撃軍のなかに渋谷重国の長男・光重流の一族の姿があった。

 不意を突かれた泰村は源頼朝が祭られている法華堂に逃れて防戦に努めた。3刻(約6時間)で「箭窮(やきはま)り力盡(つ)く」状況となった。泰村以下500余人はそこで自刃。三浦一族はこうして滅亡した。

 「吾妻鏡」は宝治合戦で幕府側についた渋谷一族がどのような活躍をしたかについて触れていない。薩摩国(鹿児島県)の入来院(いりきいん)を相伝した渋谷氏系図(岡元家文書)は渋谷定心について「入来院宝治合戦賞拝領之」と書く。

 「入来院氏系図」によると光重には重直(しげなお)、実重(さねしげ)、重保(しげやす)、重諸(重茂)、定心、重貞(しげさだ)の6人の子どもがいた。名乗りから実重が早川、重保は吉岡、重諸が大谷(海老名市)、定心は祖師谷、重貞が落合を所領としたとされる。

 一族は光重と重直を渋谷庄に残して、実重が東郷(子孫が東郷平八郎)、重保が祁答院(けどういん)、重諸が鶴田、重貞は高城に下向したと伝わる。和田合戦で大打撃を受けた渋谷一族は承久の乱、宝治合戦を経て勢力を回復したことが分かる。


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