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名将特別対談 106/100
正反対の2人、認め合う手腕 渡辺・小倉対談(下)

高校野球 神奈川新聞  2018年06月24日 02:00

写真右から、渡辺元智氏、小倉清一郎氏
写真右から、渡辺元智氏、小倉清一郎氏

写真右から、渡辺元智氏、小倉清一郎氏
写真右から、渡辺元智氏、小倉清一郎氏

 夏の高校野球100回大会に向けて1月から106回にわたって続けてきた連載「K100 神奈川高校野球」。最終回に合わせて実現した横浜の前監督・渡辺元智さん(73)と、元部長・小倉清一郎さん(74)の初対談は3時間に及んだ。名門横浜を築き上げるまでの秘話や、現代の高校野球の潮流など2人は野球観を語り尽くした。出し惜しみのない言葉の数々には、神奈川高校野球が生んだ2人の巨星から、未来の球児たちに向けられたエールが込められている。

チームづくりは馬なり 小倉 清一郎


 神奈川高校野球史を振り返ると、1957年から5年連続で夏の甲子園に出場した法政二の黄金期があり、74年夏から4年連続で甲子園に出た東海大相模の時代があった。その後、横浜、横浜商(Y校)、桐蔭学園などの台頭で群雄割拠の80年代に入っていく。

 -こうした潮流を踏まえた上で、まず法政二を率いた田丸仁さんの緻密な野球をどのように見ていましたか。

 渡辺 田丸さんにもいろいろ話を聞いた。田丸さんの野球は、勝たすための戦略がメイン。投手や打者のフォームがどうこうというより、戦略的にチームを勝たせる。とにかく選手をノックでしごいていたね。田丸さんはよく「おい渡辺、右打ちだよ、右打ち。くいを打つように打つんだ。原理は同じ。手首を返さなければ右方向に飛ぶよって」と言っていた。

 小倉 野球は時代によって違う。うち(横浜)はピッチャーが弱い時は打ちまくる野球。逆にピッチャーがいい時は守りの野球をやっていた。その両方ができたのは(98年に甲子園春夏連覇した)松坂大輔(中日)の時代。だからチームをつくるのは馬なりですよ。田丸さんが俺に言ったのは「甲子園では、ショートの後ろにふらふらと上がった打球は捕れない。普通なら捕れるが、(緊張で)それくらい足が動かないよって」

 -東海大相模の原貢さんの「打ってナンボ」の攻撃的野球から吸収した部分はありますか。

 渡辺 あの野球に勝つには、絶対に力対力しかなかった。コンプレックスも感じ始めていた。だから力、力、力って。でも、当時はまさに落ちこぼれ軍団だった。(家庭の事情などで)就職口がない選手をプロに行かせてやりたかった。そういうエネルギーを持った人を集めて(東海大)相模をねじ伏せるしかないと思っていた。(原さんの退任後は)話すこともあったね。身近に一流の人物がいたので大きなかがみになった。

 横浜の走攻守にわたる高度な野球を支えたのは小倉さんだった。相手チームの分析をデータにまとめて試合前に選手に配る通称「小倉ノート」が戦術に生かされた。

 -小倉ノートは、渡辺さんも目を通していたのですか。

 小倉 選手と一緒に監督に渡していた。本当によく見てくれていた。赤いペンで全部チェックを入れていたね。

 渡辺 あのデータを基に試合前にシミュレーションしていた。もしトップバッターが出なかったらどうしようとか、寝る時間もなかったね。それをやることでゲームに入って、それ(データ)に近い状況になれば迷わずサインを出せた。

 チームづくりで最も重要だったのは、選手のスカウト。県外からも松坂や成瀬善久(ヤクルト)、筒香嘉智(横浜DeNA)など多くの有望選手が集った。

 -スカウトはいつから始めたのですか。

 小倉 最初の頃からだよ。あの当時は(他校を見渡しても)スカウトなんかいなかった。

 渡辺 今は公にスカウトを認められているけど、当時は選手の勧誘に対して、あまりいい印象を持たれていなかった。私もあちこち行きましたよ、自家用車を売ってまで交通費を出して。まだグラウンドも合宿所もない時代で(選手寮は)人情長屋の6畳一間からスタートした。排水マンホールの上にあった4畳半の部屋は、あそこだけは見せたくなかった。でも、そういう歴史があった。われわれだけでなく、先人、先輩が築き上げてきたものを大切にしないとね。

野球は道徳観念育てる 渡辺 元智

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