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【平家から源氏へ】渋谷一族の興亡<10>和田合戦 敗れた惣領家が滅びる

話題 神奈川新聞  2018年06月19日 17:00

和田一族の墓と伝わる和田塚=鎌倉市
和田一族の墓と伝わる和田塚=鎌倉市

 鎌倉幕府始まって以来の大合戦は1213(建暦3)年5月2日申の刻(午後4時ごろ)、有力御家人・和田義盛方の150の軍勢が幕府御所、北条義時邸、大江広元邸を攻撃することで始まった。義盛の縁戚の横山一族との事前の打ち合わせでは、挙兵は3日の予定だった。義盛に味方をするとの起請文まで書いた一族の三浦義村と弟・胤義が土壇場で裏切り、義盛の挙兵を義時に通報したため攻撃が1日早まった。攻撃軍は和田、岡崎、土屋、山内、渋谷、梶原、大庭、土肥一族が主要な勢力だった。渋谷一族は、渋谷重国の家督を継いだ高重以下が加わっていた。

 鎌倉の各地で激戦が展開された。「天地震怒して相戦ふ。今日暮れて終夜に及び、星を見るもいまだ已(や)まず」。「吾妻鏡」は、戦いの模様をこう書く。御所の建物はすべて焼け落ち、将軍・源実朝は義時と広元に守られて法華堂に避難した。

 3日の明け方になると、兵力・兵糧が尽きた和田軍は海辺に退いた。寅の刻(午前4時ごろ)横山時兼以下の横山党が予定通り応援に加わると勢力を盛り返し、再び激戦が繰り広げられた。時兼は横山時広の嫡男で、時広の妹は義盛の妻だった。高重の妻は義盛の妻と姉妹だった。

 この日の酉の刻(午後6時ごろ)に最愛の息子の四男・義直が戦死すると、義盛は「声を揚げて悲哭(ひこく)し、東西に迷惑」した揚げ句に戦死。67歳だった。他の息子たちも次々に討ち取られ、和田軍は敗北、一族は滅亡した。2日間に及んだこの合戦で和田方に加わった武蔵の横山党をはじめ相模の大庭、土屋、渋谷、土肥、岡崎、梶原一族が打撃を受けた。

 「吾妻鏡」は合戦で討たれた「渋谷の人々」として渋谷せんさの次郎、同三郎、同五郎、同小次郎、同小三郎、小山四郎、同太郎、同次郎の8人の名をあげる。せんさの次郎は高重とされる。


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